Oct 14, 2006
「待つ」ということ 鷲田清一
アンリ・ド・ブラーケレール (Henri de Braekeleer) 「窓辺の男」
臨床哲学者鷲田清一のおだやかな論理展開は「待つ」ことの抱いているものがいかに広く、深いものであったかを改めて考えさせられました。人生のなかで「待つ」ことはたくさんありました。おそらくこれからもあるのでしょう。そしてその「待ち方」もそれぞれに異なる形となっているのでしょう。第一章の「焦れ」の最後にはすでにこの本全体の「予言」のような一節が書かれてありました。
『わたしたちがおそらくは本書の最後まで引きずることになるであろう事態、つまり、待つことの放棄が〈待つ〉の最後のかたちであるというのは、たぶんそういうことである。』
この本ではさまざまな「待つ」ということの引用が紹介されていましたが、特にこころに残ったのは石原吉郎の「海を流れる川」、フランクルの「夜と霧」、太宰治の「走れメロス」、「小次郎を待たせた武蔵」、そしてサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」などでした。こうした例を辿りながら、著者は丹念に「待つ」の多様性あるいはその意味をみつけようとしているようでした。
一冊の本を読む過程で、必ず一度は訪れる「疲労」があります。それは一つのテーマがとりとめもなく、さまざなな方向に拡散していき、そこをわたくしが彷徨う時です。そこを抜けて、どうやら著者の方向性が一筋の光となって見えてきたとき、その「疲労」は「読書の歓び」に変わります。多分そういう道筋を辿れた本が、わたくしにとって「よき本」ということになるのでしょう。その『光』となったものはたとえばこのような一節でした。
『何らかの到来を待つといういとなみは、結局、待つ者が待つことそのことを放棄したところからしかはじまらない。待つことを放棄することがそれでも待つことにつながるのは、そこに未知の事態へのなんらかの〈開け〉があるからである。』
『〈待つ〉のその時間に発酵した何か、ついに待ちぼうけをくらうだけに終わっても、それによって待ちびとは、〈意味〉を超えた場所に出る、その可能性にふれたはずだ。』
「待つこと」とあなたはいった。
わずかな拒否でもこわれてゆくものがあるから
しずかに「はい」と応える。
冬の空に吸い込まれていった対話。
(詩集「空白期」の「残像」より抜粋。)
(二〇〇六年・角川書店・角川選書)
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