Apr 30, 2006

良寛  水上勉

06-4-24koro-ba

 草枕夜ごとにかはるやどりにも結ぶはおなじふるさとのゆめ  良寛

 『私も九歳の経験があるのでかくいうが、その「出家」とは、旅立ちであるゆえに、出発の日から、家郷を抱くのである。父母を抱きなおすのである。良寛の旅立ちもそれを教える。』これは九歳で「出家」の経験を持つ水上勉による良寛への思いである。水上勉はみずからの体験を幾度も良寛に重ねながら、敬愛を込めてこの本を書きすすめていったように思いました。
 しかし残念なことですが、この一冊をわたくしが総て理解できたわけではない。良寛の生きた時代背景、宗教やそこに登場する幾多の僧侶に対する知識、「荘子」「龐」の思想、そこまでわたくしの知識は充分に届いていない。わたくしの予想通りに時間のかかる読書となった。無念さがあるがいたしかたない。無事に読み終えた自分を褒めてあげよう(^^)。。。

 良寛(栄蔵)は名主の家に産まれるが、飢饉、洪水、大火災などに経済が大きく揺れた時代であり、決して恵まれた少年期ではなかったようだが、書物に接する機会だけはあったようです。宗教も幕府からの干渉と規制がきつく、あってはならぬことだが、宗教の世界は非常に厳しい人間の差別を産み出していた。さらに重ねてキリシタン禁制の時代でもあったのだ。こういう時代に家を継ぐことをせずに、遅い出家をした良寛は当然乞食のような宗教者となるしかないではないか。彼の生きる道標となったものは「国仙和尚」の直の教えと、「荘子」「龐」の教えであったようだ。しかしこの本でわたくしは「素願」という言葉も知った。境遇やさまざなな教えよりも先立つものとして、人間が本来的に持っていた願いというものがある。良寛を導いたものはここにあったのではないだろうか?

 夜は寒し麻の衣はいとうすしうき世の民になにをかけまし

 天も水もひとつに見ゆる海の上に浮かびて見ゆる佐渡が島山

 水上勉は、さまざまな前人の残した膨大な量の良寛の評伝に対して謙虚に丁寧にあたり、かすかな反論も反論という姿勢は持たずに、素朴な疑問の形として残し、その上で水上は初めて自論を差し出して見せるのでした。
 さて中間部にきて、水上の良寛への信頼が少し揺らいでいるようだった。それは良寛の出家から、さまざまな紆余曲折の末に、教団へ背を向けた乞食坊主には、激しい詩歌への思いはあるものの、良寛がかつて尊敬し、学んだ僧侶の生き方(労働をするということ。)とは離れていることへの憂慮である。 しかし、良寛は「五合庵」においては、一人の僧侶としてではなく、無垢の子供のなかに仏心を見い出し、ひたすら多くの詩歌を書き続ける。これは水上勉自身の僧侶から文人への転身と類似した心の道のりではなかったか?
 良寛は詩歌に激しく関わることによって、たくさんの良き友を得る。乞食坊主の身ではあるが、これによってのびやかに生き生きとした日々はようやく訪れるようだった。水上勉はこう記している。『もともと文芸とはとはそういう自然なものであって、折にふれて詠む朝夕の感想を人に送り、あるいは送られて、また返書してゆく楽しみである。左様。たのしみでなくてはならぬ。』竹西寛子の著書「贈答のうた・講談社刊」に書かれていた言葉「うたはあのようにも詠まれてきた。人はあのようにも心を用いて生きてきた。」をふっと思い出す。

 人の子の遊ぶを見ればにはたづみ流るる涙とどめかねつも

 身を捨てゝ世をすくふ人も在すものを草の庵にひまもとむとは

 しかし、たとえ良寛とはいえ「老い」は容赦なく訪れる。その時期に「貞心尼」の登場であった。良寛七十歳、貞心尼三十歳という出会いであった。水上勉はこの出会いをとてもうれしく大切な出来事として書いていることがとても微笑ましい。わたくしも素直にこれにうなずくばかりだった。

 これぞこのほとけのみちにあそびつゝつくやつきせぬみのりなるらむ  貞心尼

 つきみてよひふミよいむなやこゝのとをとをとおさめてまたはじまるを  良寛

 きみにかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬゆめかとぞおもふ  貞心尼

 ゆめの世にかくまどろみてゆめをまたかたるもゆめもそれがまにまに  良寛

 たちかへりまたもとひこむたまぼこのみちのしばくさたどりたどりに  貞心尼

 またもこよしばのいほりをいとハずはすすきをばなのつゆをわけわけ  良寛


 しかしその出会いの翌年には大地震が起こった。

 うちつけにしなばしなずてながらへてかゝるうきめを見るがわびしさ  良寛

 ここで水上勉は「しめくくり」のような形で「龐」の生き方と良寛の生き方を、その仏教史の時代背景と二人の生き方の類似性を差し出して、「龐」が良寛の源流ではなかったかと書いている。水上勉が引用している入矢義高の解説にあるように『あなたの悟りを、あなた自身の言葉に定着させて言ってみてくれ』(求道と悦・龐居士――その人と禅 より。)ということに集約されてくるようだった。

 その地震の三年後に良寛は逝去。貞心尼との歳月はわずかに四年間だったことになるが、はかなくもうつくしい歳月であったことだろう。

 生き死にの界はなれて住む身にも避らぬ別れのあるぞかなしき  貞心尼

 うらをみせおもてをみせて散るもみじ  良寛


 この本を読みながら、しきりに上野の国立博物館の「書の至宝展」で観た、良寛ののびやかでやさしい、平仮名の多い屏風の書が思い出されるのだった。良寛は勿論漢詩も残しているが、ここに水上勉が取り上げた詩歌は、平明で平仮名の多いことにあらためて気付かされた。ここにも良寛の生き方が投影されているように思えてならない。

 【付記】

 この読書に苦戦しているわたくしの惨状(?)に手をさしのべるように、桐田真輔さんから、ご自分のもっていらっしゃる「良寛全集」からコピーした「鉢の子」に関する詩歌二十数編をいただきました。これはわたくしの読んだ水上勉の著書には取り上げられていないものでした。これによって良寛の托鉢の様子と「鉢の子」によせる愛しさが少し見えてきました。とても嬉しかった。

 道のべの菫つみつゝ鉢の子をわすれてぞ来しその鉢の子を

 鉢の子をわが忘るれど取る人はなし取る人はなし鉢の子あはれ


 (昭和五十九年・中央公論社刊)
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