Apr 25, 2006
東京奇譚集 村上春樹
春雷が二日続いた。夏の雷とは違って奇妙な胸騒ぎのする気象現象だが、それは特例ではないので、わたくしも特別な意味付けは避けることにしよう。人間は、自らの生きている理由をなにものかに託したいと思うし、託されていたいとも思うものかもしれない。この五編の短編に書かれた一種の「超体験」は、一編一編がそれほどの傑作(すみませぬ。)とは言いがたく、物語の構成もいびつであり、読み手としては苦しいものもあったが、一冊を読み終わるころには、わたしなりの答えは準備されたと思う。
現実のなかでは、その自らのわずかな「超体験」の意味は他者には意味のないことではないか?わたくしにもこうした時空を超えたささやかな体験や、自らの名前を失ったという体験がないわけではない。前者の体験は幸福な記憶として残り続けることだろう。しかし後者の記憶はその要因を含めて、季節の過ぎ去るのを待つしかない。ひとが生きるということは、丹念に、よりうつくしい思い出を積み上げてゆくことのみではないのかと近頃は思うようになった。そんな時期にこの本を読んだ。
『偶然の旅人』はまさに、偶然の不思議で幸福な出会いや出来事である。それをひとが大きな出来事と思うか、思わないかによって、それぞれのひとの生きる方向性が見えるのだった。『ハナレイ・ベイ』は死者と生者との地上での再会であり、『どこであれそれが見つかりそうな場所で』は、数分後には帰宅するはずだった人間が忽然と消えるという出来事だ。二週間という時間の経過の後に、その人間は保護されるが、髯が伸びたり、痩せていたりという現実的な時間の経過はあるが、その人間の心のなかは全く空白だった。
『日々移動する腎臓のかたちをした石』は、主人公の作家の書きかけの小説ネタである。ちょっと苦しい。。。この作家は十六歳の時に、父親が言った「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それより多くもないし、少なくもない。」という言葉の縛りのなかで生きている。一人目の女性は彼の一番の親友と結婚してしまう。この物語のなかでは二番目の女性に出会うことになったが、彼女も立ち去る。続きの三番目の女性との出会いの予感もなく終わった。
『品川猿』は、ある日から、主人公の女性が自分の名前の記憶だけを失うというお話だ。その原因を手繰ってゆくと、名前の盗人は「猿」だったという展開なので、猿芝居(失礼!)とは言わないが、狸の尻尾みたいなお話だ。その名前と引き換えにその女性は、少女期に家族から本当は愛されていなかったという、一種のベールを被せておいたままにしておいた時間を、その猿から暴かれるという展開だ。
ひとが幸福に生きるということがほとんど不可能に近いことだとすれば、「奇跡」とか「偶然」とか、あるいは「記憶の喪失」というようなことが、ひとを救済することとなり得るのではないのか?ふと、そのような思いが心をよぎるのだった。。。
(二〇〇五年・新潮社刊)
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