Apr 06, 2006
数学者の言葉では 藤原正彦
ともかく読後の気持のよい本であった、とまず申し上げておきたい。この著書のなかで、著者自身が引用しているポール・ヴァレリーの「数学」についての言葉が、この著書の魅力を語っているようです 。
『私は学問の中で最も美しいこの学問の賛美者であり報いられることのない愛をこれに捧げている。』
これは昭和五十六年(一九八一年)新潮社より刊行された後に、昭和五十九年(一九八四年)に刊行された文庫版ですので、多分藤原正彦が三十代に書かれたものと思われます。かつてのガキ大将だった彼のまだ若くてちょっぴり辛辣で生意気な数学者さんの楽しいエッセーでした。藤原正彦は新田次郎と藤原ていのご子息であり、幼児期には困難をきわめた引揚っ子でもあります。数学者と文学者のはざまで「言葉の美しさ」をとても大切にして生きた方だと思えます。この本についてはわたくし自身の思い入れや共感がとても多いので、極私的な感想になると思います。お許しを。。。
【学問と文化】
まず、この章を読みながらわたくしの脳裏にはずっと亡父がいました。わたくしは読書が非常に遅い。さらに読書の長い空白期間もあった。従って入手できた情報や知識が極めて限られるので、先輩、友人に教えて頂くことは多々あるのです。その時のわたくしは生意気にも教えて下さる方の知識度を量るという悪癖があります(^^;)。その基準となるものは、わたくしにわかりやすい言葉で語って下さった方は、多分それについてご自分の内部にすでに構築された相当量の知識を持っていらっしゃるということです。
この極私的基準は数学と物理の教師だった父から自然に受け取ったものであって、父から教導されたものではありません。父は生涯に渡って本当によく学ぶ人でした。学校勤務を終えて帰宅して、晩酌、夕食、入浴が済めば、寝るまでの時間はすべて書斎にいる人でした。子供心にも「あの父の書斎の扉の向こうには広大な浪漫があるのだろうか?」と思える程でした。また休日には母から頼まれた男仕事をきちんとこなすという面もありました。(それは物理の実践だったのではあるまいか?)そして娘のわたくしに「勉強しなさい。」とは一度も言わなかった。
しかし受験を控えた時期に、母は担任教師から「このままではお嬢さんの志望校合格は難しいのです。」と言われてから、わたくしを取り巻く環境は急変しました。母の要請で毎晩父の夜の課外授業が開始されてしまったのです。父の教え方に接しているうちに、わたくしの学校教師の教え方との大きな違いがよくわかったのです。その時の父の教え方は実にわかりやすく見事だったという鮮明な記憶が、このわたくしの生意気な基準を作ってしまったのです。(結果は予想を越えた上位合格でした。)
ちょっとお話が横道に逸れますが、難解な詩についても同じことが言えそうです。その詩の根底に確かな構造力と表現への道筋があるものは、たとえ難解でも作品のところどころにキーワードを置いているので、そこを辿ることは可能です。しかし読者を想定しない自慰的な難解詩はキーワードを置いていないので、ただの訳のわからないキケンな詩となってしまうように思えます。(わっ!三文詩人のわたくしがなんたる暴言を!!!)
さて、私事が優先してしまいましたが、ここでの藤原正彦の主張は明快です。米国の大学での招聘教授を経験した藤原の、日本の大学教授の研究と講義との比重のバランスの悪さへの指摘です。たとえ研究者として優れている教授であっても、学生への講義の負担を厭うことです。講義とはとりもなおさず「言葉」を媒体にしている。その「言葉」の往来が極めて貧しい。さらにそれに拍車をかけているのは日本の大学生の学ぶ意欲の希薄さです。過酷な受験戦争を勝ち抜いた安堵感が、もっとも学ぶべき貴重な大学生期間を粗末にしてしまっている学生が大半なのです。その間の親の学資負担の重さにさえ気付かない学生も多いことだろう。その上マークシート式テストに慣れてしまった学生たちは言語表現の貧しさまでを育ててしまった。ここに藤原正彦の言葉を引用しておきます。
『実は講義の上手下手は、一国の文化と深く関わっている。すなわち、アメリカやフランスには、「言葉の文化」と呼び得るものが存在するのである。自らの意志や考えを、言葉をもって理論的かつ明晰に表現することが、高度の知性として尊重される。』
また藤原正彦は、真の研究者というものは、寝食さえ忘れるほどの粘着性がなければ、研究の進展はないとも断言しています。その研究成果を明確な言葉で学生に手渡すことができないとしたら、それは貧しい文化ではないでしょうか?
『生命を燃焼しなければ真理が見えてこない。』 数学者 岡 清
【旅の思い出】
この章では、「ロスアンゼルスの一日」「ヨーロッパ・パック新婚旅行」があり、後者はみずからのユーモラスな新婚旅行記なのですが、とりあえずここはカット。。。上記との関連で「ヤング・アメリ カンズ」に注目したい。アメリカには「ハーバード」「エール」などの一流大学はたしかにあるが、そこに米国中の秀才が集まるわけではない。そこに入学するためには莫大な学資と生活費が必要でもある。それに代わって州立大学は、州内の学生に対して格別に費用を安くしているので、そこを選ぶ学生は当然多くなり、大学間の格差がそれほどないので、日本のような受験戦争はないらしい。
その代わりに米国の子供は高校生までは勉強をしない。大学からが本気で勉強する場だという考えがある。しかも支払った学資に見合うだけのものを彼等はきっちり取り返すという合理性もあるようだ。しかし、学者を目指す若者たちは日米を問わず孤独である。
【数学と文学のはざまにて】
この章では、父上の新田次郎との交流や、数学と文学との往来について触れています。「文学は有限なるもの。」「数学は無限なるもの。」であり、また「文学は言葉によって思考する。書きながら進行 するもの。」「数学は思考の結果を言葉とするもの。先に言葉はない。」もののようです。その二つの世界の往来は思いのほか道のりがある。それでも藤原正彦があえてその生き方を選んだのかは、ご両親 が作家であるという宿命のようなものもあるかもしれませんが、はっきりとした理由はおそらくない。数学は役にたたない分、科学のような悪用もされないと言い、下記のポアンカレの言葉が大学生時代の藤原正彦を導いたけれど、この著書を書く頃には「これもよかろう。」という距離ができている。
『真理の探求、これが我々の行動の目標でなければならない。これをおいて行動に値する目標はない。』 数学者 ポアンカレ
また、宮城県のダム建設現場から奈良時代のうるし紙が発見されて、それを赤外線装置にかけたところ、そこには墨で書いた「九九八十一」の文字が浮かび上がったという。万葉集などから奈良時代から 掛け算が使用されていたことはうかがい知ることはできるが、藤原正彦はこの発見を通して、さまざまな想像に心を躍らせながら書いていることが、こちらに伝わってきて大変好もしい思いになる。
例えば、中国から渡ってきた掛け算を学んだエリートたちが各地に赴任して、租税や収穫量の計算に利用する。さらにそれは庶民に広まり、暗算国日本の黎明となったこと。あるいは藤原自身が研究に行き詰まり、あてどのない旅に出た途中で、山陰の片田舎の木造校舎から聞こえてきた子供等の「九九」の旋律が早春の風景に調和して、数学の原風景に出会ったという歓び。海外において数学だけは国境を越える唯一の文化だという実感。そうしたさまざまな思いが「数学」が時間も国境も超えるものであるという歓びに繋がってゆくのだった。
【父を思う】
父親の新田次郎の小説を、藤原正彦はすべて読んでいるわけではない。肉親の文学作品を読むということは、冷静な読者にはなれないからだろう。父親の書いた小説のなかで、息子は恋愛場面がでてくると例外なく拒絶反応を起して異常なほど潔癖になり、その場面がなくとも小説は充分に成立するとさえ父親に悪態を突くのだった。その悪態ぶりは尋常ではなく、父親は編集者に相談するほどだったという。しかし息子の意見は却下される。父親に息子は「未熟者」と笑われ、それが的を得た答えだったために息子は余計にくやしがる。。。読んでいて「クスクス・・・」であった。
反面、父親は息子の書いたものにはすべて目を通した。息子もそれを願っていた。「まあ良い」「面白い」「非常に面白い」という三種類の答えから息子は推敲の程度をはかっていたようだ。不思議に思うことはここに同じ小説家である母親の藤原ていの介入がまったく見られないことだった。もしもあるならば、藤原正彦が母親について書いたものを読んでみたいと思う。
(昭和五十九年・新潮文庫)
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