Jul 07, 2005
夜学生 以倉紘平
これは、詩人以倉紘平氏の数編の散文詩とエッセーを収めた著書である。以倉氏は一九六五年から一九九八年までの三十三年間、大阪の釜が崎に隣接する府立今宮工業高校の定時制に国語教師として在職された。この著書は若かった以倉氏が「夜学生」と熱く関わり合い、その時間の経過とともに以倉氏が深い思いをこめて呼称した「夜学生」という言葉の風化と変貌をも見るに至るまでの記録である。それは、隣接する釜が崎の「ドヤ」の構造の変遷と連動しているかに見える。かつての木造の「ドヤ」は、宿泊者が雑魚寝できる広間があり、そこで彼等は呑み、語り合い、社会への怒りを結集させることもできた。しかし、それらの古い建物は次々に建て替えられて、狭い個室と蚕棚のような部屋とに分かれ、共有の広間を失ったかわりに部屋の差別が生まれ、彼等の怒りを組織することを阻んでいったのである。
以倉氏が熱く「夜学生」と呼ぶとき、そこに現れるのは、一九九〇年以前の苦学生の姿であろうか。実名を挙げて以倉氏が紹介している数名の生徒は、貧しく困難な家庭環境に育ち、家族を助けて働き、学び、それを「不幸」と受け止めずに生きた、様々な年齢の方々である。さらにその困難を超えて、社会人として必死に働き、新たに「聖家族」を築いていった人々である。ここで以倉氏は主張する。『口さがない評論家たちは、夜学生の夢の成就が〈小市民的な幸福〉にあったことに、皮肉や嘲笑をあびせるかも知れぬ。下積みの労働の何たるかも知らず、定職に就く忍耐力も持たず、おのれが〈選民〉たる妄想によって(略)左翼づらした言辞を弄してきたエセ文学者のなんと多いこと。』と。
以倉氏の教師生活の後半期である一九九〇年前後を境に「夜学生」の人数が徐々に減少してゆく過程で、定時制高校は全日制高校から逸れてしまった若者(あるいは高齢者の生涯教育の)の場となってゆく。背後にある家庭の貧しさも薄らいだ。さらに定時制から通信制への移行の動きも見えてくる。そこにはもうかつての「夜学生」は存在せず、人間関係を組織することの困難な生徒の「しらけ」が蔓延し「苛め」も起こってくる。「先生」も振り出しに戻されたかのように思える。しかし哀しいことだが、この生徒たちは、あの「聖家族」から育った子供の世代にあたるのではないだろうか?
音もなく星の燃えゐる夜学かな 橋本鶏二
翅青き虫きてまとふ夜学かな 木下夕爾
悲しさはいつも酒気ある夜学の師 高浜虚子
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