Jul 07, 2005

吉本隆明の読む明石海人その1&2

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吉本隆明の読む明石海人―その2


(つづく)と前期してしまった以上、書かずばなるまい。何故こんな大変なテーマについて、無力なわたしがあえて書くのか、自分でもわからないのだが、無力を承知で書くしかないのだ。少しだけ明石海人についての簡単なメモも書いておこうか。海人は1901年生まれ、1926年頃にハンセン病を発病、1933年作歌を始める。1939年逝去。下記は歌集「白猫」に書かれた明石海人自身の言葉です。(抜粋)

『第一部白描は癩者としての生活感情を有りの儘に歌ったものである。けれども私の歌心はまだ何か物足りないものを感じていた。あらゆる假装をかなぐり捨てて赤裸々な自我を思いの儘に飛躍させたい、かういう気持ちから生まれたのが第二部翳で、概ね日本歌人誌に発表したものである。が、仔細にみれば此處にも現實の生活の翳が射してゐることは否むべくもない。この二つの行き方は所詮一に帰すべきものなのであろうが、私の未熟さはまだ其處に至ってゐない。第一部第二部共に昭和十ニ年乃至十三年の作で、中には回想に據ったものも少なくない――昭和十四年一月、長島愛生園にて。』
この歌集が出版されたのは2月、この年(1939年)の6月に明石海人にこの世を去った。

さて、吉本隆明は一旦は明石海人の短歌の昇華を見たようだが、さらに別の視点から考察を続けた。たとえば短歌的声調をを整えてはいるが、修辞的な統合を欠いた作品が海人の短歌に頻出することが、吉本にはどうしても気がかりだったらしいのだ。下記の短歌は吉本がその例としてあげた作品の一部である。

(1)銃口の揚羽蝶(あげは)はついに眼(ま)じろがずまひる邪心しばしたじろぐ
(2)水銀柱窓にくだけて仔羊ら光を消して星の座をのぼる

(1)については、わたし自身は、詩「韃靼海峡と蝶―安西冬衛(1898〜1975)」の最後の一節である『すると一匹の蝶がきて静かに銃口を覆うた』をふと思い出すが、この関連性については残念ながら、わたしには裏付けはとれない。

そして、吉本隆明は一気に明石海人の短歌から彼の散文詩へと飛ぶ。この散文詩こそが明石海人が自己についても自己の死についても、非常によく相対化されていると吉本隆明は断言するのである。海人の短歌の特徴である「過剰性」は、短歌のなかに散文的な資質が内包されていたことに起因するのかもしれない。

明石海人が生きた時代は、ハンセン病は絶望的な病気であり、さらに社会からの隔離、隠蔽が強いられた時代である。作歌の手法としても、過剰と思えるほどの意味づけへの欲求がありながら、それを押しとどめることを余儀なくされたという「理不尽」が明石海人の短歌の混迷を生んだのではないだろうか?ともわたしには思える。その理不尽の一例はこれだ。

そのかみの悲田施薬のおん后今も坐すかとをろがみまつる

みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし

ふぅ〜〜疲れた。とても書ききれるものではないなぁ〜。わたしの未熟さはわたしが一番よくわかっているが、それでも書いておかなければ先へ進めないという思いがあるので、書いておきました。最後にこの一首を置いて、とりあえずこの項を終わることにする。

いずくにか日の照れるらし暗がりの枕にかよふ管絃のこゑ



吉本隆明の読む「明石海人」―その1


吉本隆明著「写生の物語・講談社・2000年刊」は、短歌と和歌に関する評論集である。このなかで吉本は歌人「明石海人」について書いている。この章はわたしがここ数年胸のうちで「病と言葉との関係」について揺れ続けていた疑問への解答をいただいたような気がするのだ。吉本は海人の作品を「療養所文学」あるいは「ハンセン病」という括りのなかで読んだのではなく、「困難な病と言葉との均衡関係」について書いているのだ。……と言ってもこれについて書くことはちょっとしんどいけれど、ま、書いてみようか。わたしは下記の一首が明石海人の歌人としての個性をもっともよく物語っていると思うが、どうだろうか?

あかあかと海に落ちゆく日の光みじかき歌はうたひかねたり

まず、吉本隆明は明石海人の短歌を、ハンセン病の初期症状の段階と非常に病状が進んだ時期に書かれたものを、分けて批評している。初期の明石海人の短歌は、病への恐怖と絶望感のなかにあっても精神の均衡は整っていたので、作品の透明感はこの段階では保たれていると吉本は見るのだ。まず初期の短歌を。

人間の類を遂はれて今日も見る狙仙(そせん)が猿のむげなる清さ
診断を今はうたがはず春まひる癩(かたい)に堕ちし身の影をぞ踏む

しかし、吉本は海人の病状が進み、意識不明に陥るような状況が頻発する時期に書かれた短歌は、その痛切さのために短歌にあるべき音韻とリズムの乱れが見えてくるというのだ。この時期の海人の短歌にはたしかに一首に盛り込むことが不可能と思われるものを盛り込んでしまったという「過剰性」が見られる。この特徴が海人自身の個性によるものか、彼のおかれた状況の痛切さによるものなのかを「解体」するために、吉本は海人の「叙景歌」のみを引き出してきて考察を試みるこというもしている。そこから吉本は海人の歌人としての資質を探ろうとする。下記の短歌(1)(2)は病状の深刻な時期に書かれたもの。(3)は叙景歌として抜き取ったものである。


(1)しんしんと振る鐸音に我を繞りわが眷族(うから)みな遂はれて走る
(2)息つめてぢゃんけんぽんを争ひき何かは知らぬ爪もなき手と
(3)庭さきにさかりの朱(あか)をうとみたる松葉牡丹はうらがれそめぬ

そして吉本は下記のこれらの短歌に出会って、ようやくほっとする。ここには音韻とリズムが充たされたのちに、明石海人の短歌は天上に届いたと一旦は断言するのだが……。

鳴き交すこゑ聴きをれば雀らの一つ一つが別のこと言ふ

嚔(はなび)れば星も花瓣もけし飛んで午後をしづかに頭蓋のきしむ

(つづく)
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