Sep 26, 2006

天才の栄光と挫折・数学者列伝  藤原正彦

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 ここには九人の数学者が取り上げられています。まずその数学者の生きた時代と国名を表記してみましょう。

アイザック・ニュートン(一六四二年~一七二七年)・イギリス
関孝和(一六三九年?~一七〇八年)・日本
エヴァリスト・ガロア(一八一一年~一八三二年)・フランス
ウイリアム・ロウアン・ハミルトン(一八〇五年~一八六五年)・アイルランド
ソーニャ・コワレフスカヤ(一八五〇年~一八九一年)ロシア・・・ストックホルム(スェーデン)
シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(一八八七年~一九二〇年)・南インド・・・イギリス
アラン・チューリング(一九一二年=一九五四年)・イギリス
ヘルマン・ワイル(一八八五年~一九五五年)・ドイツ・・・アメリカ
アンドリュー・ワイルズ(一九五三年~)・イギリス

 この著書は上記の数学者の短い評伝でもありますが、藤原正彦自身がこの数学者たちの足跡を訪ね、関係者に出会う旅の紀行文ともなっています。どの時代の数学者の生涯のなかにも共通して感じられることは、研究にかけた尋常ではない時間の凝縮でした。

 まず、アイザック・ニュートン関孝和の時代の数学は、天文学、暦学、哲学、宗教学、政治学、経済学、(日本で言えば陰陽学も加わります。)などの広範囲な世界を内包していたのでした。「栄光と挫折」というタイトル通りに、数学者も人間・・・嫉妬、競争の坩堝のなかで苦しみ、さらにその時代の権力者の寵愛を受けるか否かで学者の運命は大きく変わります。学者の弛みない研究生活を見る緊張感と同時に、学者と権力が手を結ぶという怖さもありました。しかし藤原正彦は、その彼等の不遇な部分に光を当てようとしているかのようでした。

 時代が変われば、エヴァリスト・ガロアのように一七八九年のフランス革命後の混乱期にあって、家族ともども思想的に困難な時代を生きなくてはならないこともあり、学者としては大変不遇でした。あるいはウイリアム・ロウアン・ハミルトンのように詩人(ワーズワースとの出会いで、詩は断念。)ということもあったのでした。ガロアの短い生涯の最後の言葉はあまりにもいたましい。

『私を忘れないでくれ。祖国が私を記憶するほど、運命は自分に充分な時間を与えてくれなかったのだから。君達の友として私は死ぬ。』

 たった一人女性数学者としてソーニャ・コワレフスカヤが登場する。数学と文学とを心のなかに共存させて、美貌と知性、母性、そして大変に愛された女性であったというが、反面「絶対」を求めずにはいられない女性として生涯孤独な魂を抱いていたとも。。ドフトエフスキーの「罪と罰」は、ソーニャとその姉アニュータ(作家)との出会いののちに書かれたものだそうだ。

 南インドの数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、貧しい事務員で教育も満足に受けていなかった。彼の研究を最初に認めたのはイギリス、ケンブリッジ大学のハーディーでした。ヒンドゥー教の戒律と数学との狭間で苦しみながらも、ラマヌジャンはケンブリッジにおもむき、ハーディーと共に、研究する幸福な時間もありました。三十二年の短い生涯で、彼の数学研究を助けたのも、苦しめたものも南インドの土着の宗教だったようだ。

 アラン・チューリングの師、ケンブリッジ大学のハーディー教授の一九四〇年のこの言葉は、皮肉にも数学の歴史の転換期を予言してしまったようだった。この本を時代を追って読みながら、わたくしが恐れつづけたことはここから始まったと思いました。

 『真の数学者による真の数学は役に立たない。科学は戦争など悪にも役立つが、純粋数学は安全である。戦争に役たたせる道は見出されていないし、今後も長い年月、見出されるとは思えない。』

 しかし、チューリングをはじめとするイギリスの数学者たちは、一九三九年戦争勃発とともに、ドイツ軍の「エニグマ」という暗号文解読のために集められることになった。これをさらに発展させられたものが、コンピューター理論の元となった「コロッサス」となる。時代はここまで来てしまった。このとき彼は二五歳。

 ヘルマン・ワイルは数学とは、哲学、文学や音楽と同様に精神活動の一環として考える学者だったようだ。一九三三年ヒットラーのユダヤ人追放の時代に、妻のヘラがユダヤ系だったことから、アメリカへ渡ることになった。そのアメリカからワイルは幾多のユダヤ系の学者を救出したが、その結果ドイツのゲッティンゲン大学は瓦解したとも言われている。

 戦後日本の数学界はアメリカへの頭脳流出のために、学者の乏しい時代にあったが、そんな時期(一九五三年)に東大に「SSS」という研究集団が立ち上がる。その中心人物が谷山豊と志村五郎であり、二人が取り組んだ研究は一七世紀後半の「フェルマーの予想」の証明であった。
 一九六三年、アンドリュー・ワイルズ十歳の時に図書館で出会った「フェルマーの予想」の「最後の問題」の証明が少年の夢となったのだった。ここですでに見えない架け橋がかかっていたのだった。谷村豊は自死するが、志村五郎は続行する。
 そして一九九四年ワイルは、ケンブリッジ大学講師リチャード・ティラーの協力により、「谷村・志村予想」の証明を成し遂げた。約四十年の歳月が経過していた。

 数学者藤原正彦が魅せられた数学者の紹介はここで終わる。
 この本を一緒に読んでくれた亡き父よ。ありがとう。

 (二〇〇二年・新潮選書)
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Sep 19, 2006

犬のしっぽを撫でながら   小川洋子

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   (photo by KIKI.....u u u)

 この六一編のエッセー集のはじめには、小説「博士の愛した数式」の書かれた動機について記されています。そのきっかけは数学者藤原正彦の「天才の栄光と挫折・数学者列伝」にあったとのことです。たしかに藤原正彦の文章は(「国家の品格」以外!)明確で魅力的です。数学の苦手だった小川洋子は数学の美しさ、ゆるぎない正しさ、果てしのなさに惹かれていったようですね。

 そして、その小説に出てくる博士が愛した少年「√」の誕生日を「九月十一日」としたこと、その誕生日のお祝いの夜にバースディー・ケーキが壊れたことの理由もこのエッセー集で理解しました。それは、小川洋子の作家としての出発点が「アンネ・フランク」だったということとどこかで繋がっているのではないか?という思いが立ち上がったからでした。
 また、「√」と小川洋子のご子息が共に「野球少年」であること。タイガース・ファンであることなどのほほえましい繋がりも見えます。また若い日にレース編みを学んだこと、その先生のお宅にはフェルメールの絵「レースを編む女」が飾られていたことから、この博士の美しい数式の比喩として、「レース編み」が何度か登場することにも納得できるものでした。小川洋子の素直なやわらかな(ちょっと夢見がちな・・・)感性をここに感じます。
 この小説「博士の愛した数式」の「読売文学賞」と「本屋大賞」の受賞はともかくとして、その他に「日本数学会出版賞」を受賞したということは、上等なジョークのようなお話ではないだろうか?

 それから面白かったのは「罵られ箱」という二ページ弱のエッセーです。ささいな他者の冷酷な言動によって、小川洋子はすぐに落ち込むらしい。そんな時にこの箱を開ける。これまでの人生のなかで受けたさまざまな非難の言葉と心静かに対面して、またその箱に収めるのだとか。その箱は詰めても詰めても満杯にならないのだとか。。。
 わたくしの「罵られ箱」の中身は、小川洋子より年長故大分増えましたが、さらにこの秋くらいには増えることでしょう。いくらでも入ると言う小川洋子のこの言葉を信じてみよう(^^)。

 エッセーはその他は省いてここでちょっと笑い話。。。「曲がった鼻」という短いエッセーのなかで、耳鼻咽喉科の検査に鼻から内視鏡を入れて、咽喉を調べる方法があるのですが、その時小川洋子は貧血を起してしまって、ドクターから「君の鼻は曲がっているねえ。」と言われたそうです。わたくしは同じ場面でドクターから「鼻の穴が小さいですねえ。」と言われたことを思い出してしまって、おもわずクスクスクス。。。鼻呼吸の上手い人間ほど集中力があるそうな。。。ふうむ。深く納得しました。

 (二〇〇六年・集英社刊)
Posted at 14:19 in book | WriteBacks (0) | Edit

Sep 16, 2006

良寛  吉本隆明

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 吉本隆明がこの本で何を伝えたかったのかはとても明確でした。そして吉本が描きだした「良寛」はさらに明確でした。良寛の思想の根底にあったものは、曹洞宗円覚寺の国仙、道元の「正法眼蔵」、老子と荘子であることは、水上勉の「良寛」の感想文の折にすでに書きました。この本のなかでは「仏教者良寛」について、吉本と水上の対談も収録されていますが、水上は自らの境涯を重ねながら語り、吉本は「思想」「詩文」「書」を中心として追いながら、良寛の精神の筋道を語ろうとしていました。このお二人の対談はこの本のなかで光を放っていたように思いました。お二人の「良寛」を読んだことの幸福を感じます。

 吉本は良寛の思想を「アジア的」と言っています。現代を生きるわたくしたちは、良きにつけ悪しきにつけ、すでに「欧米的」思想を取り込んでしまっているのです。その精神構造で読んでいきますと、吉本の解説する「アジア的」思想が、とてもなつかしく思われてくるのでした。そこに国仙が良寛を評して言った「大愚」と、良寛の天性の性格の「悲劇性」とが錯綜して、良寛の実像に近づくのはとても困難なことだったと思います。

 まず極私的に「愛語」に触れてみたいと思います。これは道元の「正法眼蔵」のなかにある「菩提薩捶(吉本の本では土偏に垂と表記。)四摂法=ぼだいさったししょうぼう」には「布施」「愛語」「利行」「同事」がありますが、良寛がもっとも拘ったのは「愛語」だそうです。従って吉本もそれらのいくつかを自らにてらして考えています。素直な方ですね(^^)。さらにその一つにわたくしも拘ってみました。それは・・・・・・

『かりそめに童にものをいいつけてはいけない。』

 ・・・・・・と言うものです。大人がやるべきことを子供に代理をやらせてはいけないということです。また「誰それがいけない。」とか「なにがしが悪い。」という大人の勝手な判断を、まだ判断力の育たない子供に押し付けてはいけないということです。不思議なのですが、それを無意識に自分がやってきたということが嬉しかったのでした。
 しかし「禁止」は言いました。それは本当の意味での「禁止」ではなく、「禁止」を破る緊張感を子供に感じてもらうためです。「禁止」を言い渡しても、子供は増水した川に行きます。車の絶えない県道を渡って、思いがけない程に遠方まで行ってしまいます。事故に遭遇します。迷子にもなります。見知らぬ人についていったり、物を受け取ったりします。高い樹に登ります。帰宅した子供の匂いや、顔色や、服や靴の綻びや汚れ具合などからその日の出来事は見えてきますが、夕暮れに無事に帰ったことに安堵しつつ、時には思いがけない通報であわてたり。。。すべてはこどもの「いのち」を守るため、母親がやるべきことは本当にそれだけしかないのです。

・・・・・・おっと。。。自分のことばかり書いてしまいましたが、この「愛語」は、托鉢の途中で子供たちと手まりで遊ぶ良寛の行為に繋がっているのではないかと思わずにはいられません。現代の児童心理学や犯罪心理学を超えてゆく思想ではないかと思います。

 良寛の詩文の根底にもやはり「愛語」があったように思います。良寛の詩文はすでに近代の詩歌にまで受け継がれる要素をもっていたのではないでしょうか。この「詩文」と「書」を例にとりながら吉本は、僧として、詩人としての良寛を理解しようと展開しています。この吉本の柔軟な論理展開は美しいものでした。人間の真摯な探求はいつでも美しい。。。

【付記】
この感想を書くにあたり、「道元の「正法眼蔵」のなかにある「菩提薩捶四摂法」について教えて下さった方々にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 (一九九二年・春秋社刊)
Posted at 15:07 in book | WriteBacks (0) | Edit

Sep 10, 2006

テストです。

【菩提薩捶四摂法】

↑の文字、テキストで書くと「捶」が拒否されましたが、ここなら大丈夫かな?道元の「正法眼蔵」にあるものです。「布施」「愛語」「利行」「同事」の四つだそうです。それにしても正確な読み方もわかりませぬ。こまった。。。「ぼだいさったよんせっぽう」でいいのかなー?

「捶」は本当には「つちへん」ですが。さらにテスト。。



この↑文字は桐田さんのマックから見ると、文字化けするそうです。あちゃー。。
Posted at 16:44 in book | WriteBacks (4) | Edit

Sep 07, 2006

贈答の詩③ 清水哲男詩集「黄燐と投げ縄」への挨拶詩

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 清水哲男さんは、この詩集以前に「夕日に赤い帆」「緑の小函」と二冊の詩集が出版されています。「赤」「青」「黄」と交通信号三部作だそうです。ふうむ。「止まれ。」「渡れ。」「注意せよ。渡れる自信ある者は渡れ。」ということになりますね。詩集をぱらぱらとめくりながら読んでいるうちに、「何か書けそうだな。」という気持が動きました。黄色の信号が点滅しているうちに、ちょっと頑張って渡ってみます。作品のなかには、この詩集のなかの言葉をお借りしていますことを明記しておきます。哲男さんからは「こういうケースは高田さんのオリジナルなのですから。」という許可を頂きました。


    兄の記憶

  その先の角を曲がれば
  兄の背中に追いつけるだろうか
  そんなあわい想いをかかえながら
  黄燐の匂う道を辿る

  曲がり角にさしかかって
  ふっとわたくしは想う
  夢のなかで
  やさしく小さな歌を歌ったのは誰だったの?

  数十年生きても
  白く笑う癖は直らない
  戻ることのできない夢が
   兄の背中に今もおぶわれているわけではない・・・・・・

  生きてきたことに間違いはなかった
  死ぬことはきっと間違いなくできる
  あの夕暮れの歩道橋で
  手を振っている幻の人だけが知っていること

  福生セントラルの暗闇に
  今もボールを握ったまま
  佇んでいる少年の兄よ
  わたくしはその時
  金網におでこを貼り付けていた
  眼ばかり大きな少女だった

  曲がり角に佇んで
  電柱のかげに隠れて
  空の魚や
  老いた猫や
  巨きな父上や
  兄の背中をみつめている
  そのわずかな距離の果てしなさ

  まだ、その道に行けない
  頑迷なわたくしの足元では
  言葉の叢が
  一斉に風に騒いでいるから・・・・・・


  (二〇〇五年・書肆山田刊)
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Sep 03, 2006

百人一首

sikibu

 我がごちゃごちゃ書棚には、たぶん五冊くらいの「百人一首」の解説本があるのだろうが、とりあえず参考にしているのは、吉原幸子著「百人一首・一九八二年・平凡社刊」と、白洲正子著「私の百人一首(愛蔵版)・二〇〇五年・新潮社刊」の二冊である。白洲正子の本は一九七六年新潮選書として書き下ろされ、その後文庫版となり、それを底本とした愛蔵版です。

 吉原幸子の本では、かなり深入りした解釈とともに、吉原幸子自身が書いた解釈口語詩も添えられている点がユニークな試みです。そこには彼女自身の少女期の百人一首遊びへの郷愁も加担しているようでした。反面、白洲正子の本では、歌そのものの解釈には深入りせずに、歴史的状況を踏まえながら、距離をはかりつつ書かれている。白洲正子は吉原幸子とは異なる視点で「何故、百人一首がこれほどに人気があるのか?」という問いかけから出発しているようです。

 とりあえずこの二冊をテキストとして、吉原幸子の後追いのつもりで、一首に対して五行の口語詩を書く試みを始めてみました。一人では寂しいので相方をお願いして二人で交互に書いて、連詩のような形にしています。道のりは遠い。完結するかどうか。いや完結させたい。それができたとしても、どうということはないのですが、わたしには楽しい遊び、百人一首の丁寧な再読という収穫もあるのです。
Posted at 20:20 in book | WriteBacks (0) | Edit
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