Mar 31, 2005
エマーソンの日記
「相聞(あいぎこえ)」の安住の場ができました。ページを作って下さった桐田真輔さんに感謝いたします。これらの作品をわたしは何も考えずに、とにかく書きはじめてしまいました。走り出してしまったと言ってもいいかもしれません。そのわたしの盲滅法な詩作業を追うようにして、桐田さんが論理付けをして下さったように思います。桐田さんが書いて下さった「相聞によせて」を拝読しますと、それがよくわかりました。
エマーソンの「日記」のなかにある「男は苦労のあげくに結論に達するが、女は共鳴だけでそこに達する。」という言葉が、今、わたしの脳裏を横切っていきました(^^)。
Mar 25, 2005
あいぎこえ
今年に入ってまもなく、わたしは詩作の一つの計画をたて、それを今日すべてやり終わったと思う。計画の発端は、昨年末に友人からメールで次々に送られてきた二十数篇の詩だった。それらは友人が二十代から四十代に書いたものであり、その後は古い同人誌のなかに眠っていた作品だった。さらにその前の発端は、わたしの一編の詩だった。その詩のタイトルと書かれた風景が、友人がかつて書いた詩と似ていたことに、彼が気付いたことからだった。そのお互いの作品が書かれた時期は、十四年という時間の隔たりがあったのだが。
次々に送られてくる作品に、わたしは返信を送りつづけた。半月くらい毎日それは繰り返された。その過程でわたしはその友人の作品のなかに、呼応するわたしの作品もみつけることもできた。それらのやりとりが終わったとき、友人はホームページにその作品群の部屋を作った。わたしはその時、この計画を思いたった。おそらく無理な計画ではないだろう。それは送られた全編に対して「返し詩(うた)」を書くことだった。
それは、まだお互いに会うこともなかった時間まで旅をすることだった。時間の階段を降りていったり、未知の空間をさまよったり、歩きなれない道を歩いたり、見えない影に怯えたり、さまざまな迷宮をめぐり、そうして書き終わった。しかしそれがなんだったのだろう?どのように言葉を費やしても、時間を取り戻すことなどできないのだ。「あいぎこえ」という初めての詩作業をみずからに課し、それはそれなりに書けたと自画自賛してもいいのだが、この作品群の置き場にこまっている。
Mar 22, 2005
日常
「ついにきた。」という感じ。マーケットでの買い物が嫌いなわたしではあるが、これは避けて通れない仕事である。だから行くと少なくとも三日以上過ごせるだけのものを買う。これがまた過重労働になるという悪循環であるのだが……。しかしある日、日々の食材ではなく、バスタオル、スリッパなどなどを買い求めている途中で、嘔吐感に襲われる。この買い物の後で、食材も買わなくてはならない。嘔吐感をかかえながらなんとか食材を一日分だけ買って、早々に帰宅したがすぐに料理にとりかかる気力はない。
家事には休日がない。あたりまえのことだがこの途切れのない行為の繰り返しには、やはり「心が病む」のだろうか?わたしはこういうことには強気だから「病む」ということは断じて認めない。しかしわたしのからだが認めてしまったのだから観念するしかない。
ついでに花粉症もきた。めでたい春ではある(^^)。
Mar 16, 2005
Mar 13, 2005
冬と春のはざまに。
このお花も贈り物です。神代植物園で撮って下さったものです。ありがとうございました。
花の名前は「レンテンローズ」、春咲きのクリスマスローズだそうです。
このブログの書きこみ方式が少し変わりましたので、うまくいきますでしょうか?
Mar 12, 2005
Mar 10, 2005
Mar 07, 2005
姦通罪雑感
アメリカの女優メリ-ル・ストリ-プが「女性のため差別撤廃人権運動」で、日本の民法の「女性が離婚後6ヶ月間は結婚できない。」ということは差別であると声明を出したと、あるクリスチャンの女性からお聞きしました。これは、離婚した女性が妊娠していた場合には、その子の父親は誰か?という問題だったのでしょう。この問題点は医学の進歩がクリアしたように見えます。
歴史を遡って考えると、1947年に廃止された「姦通罪」は、夫のある女性の姦通が主体の刑法でした。相手方の男性もそれに付随して処罰されるというもの。わたしはこの民法は、廃止されたはずの「姦通罪」を引きずっているように思えるのです。これは医学の進歩でクリアできるような問題ではないし、ましてや法律の問題でもないと思います。女性の「愛」というものへの主体性の問題ではないかと思います。また「どちらが父親か?」などという考えは無意味です。「父親になる。」という意志さえあれば、その男性が「父親」になればいい。
このわたしの意見に対して、その女性はこのようにおっしゃいました。『イエスの父親であるヨセフを思い浮かべました。無論、マリアは「お望みどおりになりますように。」と答えて母親になることを了解したのですが、ヨセフは密かにマリアを離縁しょうかと思うほど苦しみました。』
この発想は実に面白い。もしも、女性が「懐胎」という「光」の部分を引き受けるとしたら、男性は当然「闇」を引き受けることになるでしょう。これは人間の長い歴史のなかで、何度も繰り返されてきたような気がします。そしてその「光」と「闇」はお互いを犯し合いながら共存してきたのではないでしょうか?
Mar 04, 2005
息子の誕生日
三月四日は息子の誕生日です。お雛祭りにはどうしても産まれたくはなかったのかもしれませんね(笑)。産まれたのは春の雪の降る日でした。今日も雪が降っています。この日がくるたびに思い出す小説があります。今までどこにも書かなかったけれど、一生に一度くらい書いてもいいでしょう。
その書名も著者も忘れるくらいですから、あまり著名な小説ではないのかもしれません。そこには望んではいなかった妻の妊娠にたじろぐ男が描かれていました。気持の整理のつかない男は妻に対して「階段から突き落としたい。」と口走ったり、「よく食べるね。」と冷ややかに妻の食事をみつめる様子が描かれていました。
そして、産まれた子供が男の子だったということに対して「まるで近親相姦のような気がする。」とつぶやくのです。さらに授乳中の息子に嫉妬し、そういう自分の動揺にもうろたえている男。けれども「男児誕生、天晴れなり。」という世間的な常識には喜ぶ男のお話でありました。
それは、夫の妻に対する愛情の深さと受け取るべきなのだろうか?わたしはその妻の肉体が、次第にこわされてゆく「孵卵器」のように感じられて、奇妙な深い哀しみにとらわれたのを覚えている。
ともあれ、我が愚息はもう立派に大人である。なかなかハンサムである。
ハッピー・バースディー♪
Mar 03, 2005
100年
上田敏訳の「海潮音」は明治38年(1905年)に出版されましたので、今年でちょうど100年になります。雛祭りに合わせて、春の詩を。
Pipa's Song ロバート・ブラウニング
時は春、
日は朝(あした)、
朝(あした)は七時、
片丘に露みちて、
揚雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事もなし。
燕の歌 ガブリエル・ダヌンチオ
弥生ついたち、はつ燕、
海のあなたの静けき國の
便(たより)もてきぬ、うれしき文を
春のはつ花、においを尋ぬる
あゝ、よろこびのつばくらめ。
白と黒との染分縞は
春の心の舞い姿
……(後略)
花くらべ シェークスピア
燕も来ぬに水仙花、
大寒こさむ三月の
風にもめげぬ凛々しさよ。
またはジゥノウのまぶたより、
ヴイナス神の息よりも
なおらふたくもありながら、
菫の色のおぼつかな
Mar 02, 2005
今日は3月2日です。(その2)
これは【レッスンー3】の2回目です(^^)。じゅげむじゅげむごきょうのすりきれかいじゃりすいぎょのすいぎょうまつうんぎょうまつふうらいまつくうねるところにすむところやぶらこうじぶらこうじぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりんがんしゅーりんがんのぐーりんだいぐーりんだいのぽんぽこぴーのぽんぽこなのちょうきゅうめいのちょうすけ。