Jan 12, 2008
骸骨人厭々日録2004
2004年2月2004/2/26(thu)
失業 足立和夫
今日もおとなしく寝て
今日もおとなしいままに起きる
くりかえされる鈍色の日々
ふとんが住処となって
何ヶ月たつだろう
まぶしい太陽の世界
目玉が痛む
夜の闇の降臨は
ぼくのこんがらかったからだを
ほどいてくれる
会社からどのくらい遠くなったか
あんがい近いかも
もうお近づきになりたくはない
獰猛な睡魔の力に吊るされるのが
とりあえず正しい
こころも惰眠の底で落ち着いている
ぞんぶんに休息するがいい
将来の展望ってなにかな
わからなくても別に困らないか
アスパラガス茄子たまねぎサツマ芋
野菜を電子レンジでチン
無口な夜の底まで
静かに落ちていく
なにもかも許されるように
真夜中に沈む静謐な街にしみていく
からっぽの世界の暗さには
冷えびえした異物の光があった
いまは何もしゃべらなくていい
ただ見てればいい
人通りの絶えた夜道の先にみえる
ラーメン屋の神に
会いにいこう
初出『Lyric Jungle』5号 2003年1月20日発行
2004年3月
2004/3/26(fri)
パスカルの『パンセ』
学生の頃、愛読していたが、この20年くらい読んでいない。
この間、MP会で森岡正博氏のフィロソファーリーディングを聴いていて、さまざまなことを想った。たとえば、
「無限の空間の永遠の沈黙がわたしを恐怖させる」
この脳に強く刻印される言葉は、だれでも知っているだろう。いまのわたしは、こう言い換えている。
「無限の存在の永遠の沈黙がわたしを恐怖させる」と。
2004/3/25(thu)
引用。。。
野矢茂樹訳ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫)から。
六・四四「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」
美しい言葉だ。あらゆる神秘主義が排され、ほんとうの神秘が示される。
この神秘は、おおくの子供たちが人知れず感得し、自分の親に訊ねて困らしているのではないだろうか。拙く幼い言葉で。。。 小さな哲学者たち。。。
わたしも「小さな哲学者たち」のひとりだった。答えがないのが応えなのか、と思っていた。存在の恐怖に怯えを覚えた。
この恐怖について、おおくの大人は忘れているらしいことに、思いをめぐらせる。。。なぜだろう。。。
訂正。。。
「存在の恐怖に怯えを覚えた」
↓
存在に怯えを覚えた。
2004/3/21(sun)
「存在の起源」なるものも、無い可能性もある。いや、可能性は大きいだろう。
むろん、宇宙の存在は存在の一部分であろう。
存在は、ただ在るだけであろう。
まさに、存在理由(があるとしても)には言葉は届かない。言葉の限界が世界の果ての岸辺である。
人間は、その岸辺で果てしない存在の海をながめるしかない。そこまでである。
2004/3/17(wed)
ひとつの結論
存在の起源について、いかなるものも、わかることができない。
この事実は驚愕すべきことだ。
2004/3/11(thu)
影のダンス 足立和夫
部屋のなかから
そとの舗道に出る
まぶしい光の真ん中で
影が這ってくる
それは闇のかけらだ
影は死の模様なのか
青梅街道を走る車が
すぐ脇をたくさん過ぎ去っていく
死に限られた生命にのみ
時間の流れがある
死のないものに
時はない
生まれたときに
時間は流れ始めるのだ
舗道のうえで
静かな動きで
影は死のダンスをしている
モノたちに
終わりがあるなら
それまでは時間が動いている
ぼくのまえを横切る
子供たちの自転車が三台
やはり影が追って
ダンスをしている
世界が美しいのは
死に向かっているからだ
そう 死に至れば
時間というものは
消滅する
ぼくは奇妙な確信に
たどり着いた
その一瞬 すべては美しく輝くことを
すべてはなくなることを
初出『Lyric Jungle』4号 2002年10月30日
2004年4月
2004/4/13(tue)
ひとつの感想。。。
50年以上も生きてきて、人に殺意を抱いたり、憎悪を覚えたりしたことがない、と言えるのは相当な世間知らずであろう。とうてい「人生の機微」がわかるとは思えない。
わたしのようなお人好しでも、それはないよ、と困惑してしまう。
無菌室のような隔離された人間関係だけで生きてきたのだろうか。。。
2004年5月
2004/5/9(sun)
アスファルト 足立和夫
コンクリートの部屋の
ドアノブを回すようにひねり
押しあけてそとに出る
湿った薄暗い廊下
頭をゆっくりまわし
天井のようすを見た
いく本か蛍光灯が切れている
一本は切れそうな音と光が
小さな炸裂を繰り返している
孤独な悲鳴だ
そのうち静かになる
いつものこと
気にすることではない
そのまま放って
曇天の外気のなかに溶けて
アスファルトの湿った黒色に
眼を落とす
泡立つ黄色の意欲が
だんだんと収まり褪せる
残りをコンクリートが
削る
それでわかった
ぼくは
ひとのたましいを
背負うことができないことが
地面に横たわっている
コンクリートの重量で
湿った空気にくるまれて
うずくまって
囁く
昏い沈黙に降りて
姿を消す人よ
あなたがたこそ
ぼくなのだ
初出『ぺらぺら』8号(2001年2月3日発行)
2004年6月
2004/6/10(thu)
黒い実家 足立和夫
するどい逆光のなかで
黒い実家が
土煙に覆われて消えそうだ
花粉みたいな土ぼこりの風のなか
無数の細かい粉全部が
黄色く輝き
眼球にくっつくようで
まぶしい
家を囲む木々や雑草が
光りながらゆれるので
空家の窓は
暗く固く閉じたまま
沈黙する家が
粉で光る空に向かって
高く聳えている
すでに二十年は過ぎたのか
ふと緑色の郵便配達夫が
門柱のポストに
手紙を押し入れるのを見た
ぼくが出したものに違いない
ぼくは知り得ぬ理由で
動かされている
家の中から声が
地面を這ってくる
母と父の口唇が叫んでいる
(なに立っているんだ
(はやく入ったら
(まったくこの子は・・・
ぼくの口は縫われたように黙り
今の時代にもどった
鉄扉を押して
老いた父母の方へ近づいていった
いまの黒い実家は幻なのか
気持ちは落ち着いていた
やあ帰ったよというかたちで
初出『ぺらぺら』8号 (2001年2月3日発行)
2004年7月
2004/7/1(thu)
目 撃 足立和夫
天の深い闇が
始めて火傷を負ったのは
いつのことなのだろう
夢みる人間どもは
それを星の光と呼んでいる
烈しく焼きつくそうとする巨大な炎
無限の火傷の痕を
膨張する闇はゆっくり呑み込んでいく
人間どもはいずれ消えるだろう
初出『詩の雑誌 midnight press』13号 (2001年秋)
2004年10月
2004/10/4(mon)
まがる夜に 足立和夫
月の光に包まれた
廃棄物置き場が
夜のかたすみに
うかんでいる
からっぽの夜空が
逆さになれば
そこに居るものの
臭いを嗅ぐことになる
つんのめる脚がまがった
夜を蹴る足音は
警備員のからだを透る
声がどうしても眠っていく
夜にまがる声
闇をまがる音
夢の見知らぬ街跡で
ひとはまがる
ひとはゆがむ
いつもまがっているので
いつもゆがんでいる
まがる
先の暗い道に導かれ
ゆがんだ表情を
わずかに
まがりつづける
ゆがむ顔は
皺が深くなっていく
その深さを量る者は
ひとりもいないだろう
漆黒の世界のなかで
ただ息づいているだけ
自身の息づかいを聴いている
まがる夜のなかで
初出『ぺらぺら』9号(2003年10月20日発行)
2004年12月
2004/12/11(sat)
奇妙な空のなか 足立和夫
文机にころがるボールペン
紅茶カップ
お箸と皿
パソコン
こんな小物からはじまり
世界の果てまで
欠片でつながっている
苛酷な空すら
途中である
不気味なつながり
つながりの後先には
終わりがないことを
われわれは知っている
思わず
奇妙な孤独に
嘔吐する
つながりのすべてに
意味がないことに
われわれの存在にも
すべては
ただ放置されているだけ
ここも
あそこも
ただ在るだけ
ただそれだけ
なにもないところで
ぼくは
草のように
世界を喰っている
初出『ぺらぺら』9号(2003年10月20日発行)
骸骨人厭々日録2003
2003年4月2003/4/29(tue)
初日。。。
さあ、骸骨人になったぞ。
墓地墓地 逝くかな。
最近、この世は意味不明である、という確信めいたものが根づいた。子供の頃、すでに予感はあった。
わかるなあーこの言葉。。。
中島義道『不幸論』(PHP新書)から引用。
「大森荘蔵は晩年「この世には何の意味もない」と呟いていた。「意味」とは、何らかの納得できる解釈である。自分がこんなひどい目に遭っているのはなぜなのか。自分がこんなに生きにくいのはなぜなのか。自分が少し前に勝手に生まれさせられて、たちまち死ななければならないのはなぜなのか。大森によれば、その答えはないのである。世界とはそういうものなのであり、ただそれだけなのだ。」
2003年5月
2003/5/28(wed)
いつも思うこと。。。
人間って、つくづく奇妙奇天烈な生き物だと思うな。粕谷栄市の詩句を借りれば、一人ひとりには「魂の現実」があり、誰にも分からないものを抱えていること。それは当たり前でいて、とても不思議なことだ。日常生活では感じないことだけど、諍いをまえにすると、人は人のことをわかるわけはないなと思う。なぜこうなっているのか不思議だ。
いまの「文学」に欠けているのは、人間に対する巨大な興味じゃないかと睨んでいる。深い洞察が聞こえてこないな。まあ人のことは言えないけどね。。。
2003/5/14(wed)
オナラだって。。。
オナラを出したっていいじゃないか
にんげんだもの (愛だみつを)
骸骨人だっていいじゃないか。。。
2003/5/13(tue)
引用だって。。。
日録が引用だっていいじゃないか
人間だもの (愛だみつを)
2003/5/12(mon)
議論という姿勢。。。
中島義道『たまたま地上にぼくは生まれた』(講談社)から引用。
「ディベーティングは、科学的な態度に近くて、アメリカ人なんか好きなようですけれども、弁護士の教育ですね。ソフィストといって、ソクラテスが一番嫌ったものです。つまり、いつも議論に勝つように教育するわけです。・・・討論術の授業を受けて、勝たなければ優等生にはなれないわけです。・・・ 内容はなんだっていいんですね。・・・いつも勝てばいいわけですから。『ゴルギアス』でソクラテスはそういう話を非常に明確に言っていまして、勝つか負けるかということにかかわるんだったら、私は一切あなたとお話しません、というような言い方をします。だって、ソクラテスは真理を求めているんですから、負けたって場合によってはいいわけですよね。・・・それは真理なんですから・・・
対話とは・・・相手を打ち負かすことが目標ではなく、・・・自分の実感とか身体というものを、かけがいのない自分の言葉、ニーチェによると「血の言葉」・・・をもって、ぶつかっていくことです。・・・負かされても、・・・何かがわかるようになるからいいわけです。これがディアレクティケという弁論術、あるいは弁証法の基本です。」
2003/5/10(sat)
厭々ということ。。。
日々生きる実感がうすい。希薄。不況ながらも日常生活のぬくもりを生きてしまう。部屋の中は「ごみ屋敷」状態。どうやら私の「無意識」が荒れているようだ。これは若いときからそうだ。失業が10ヶ月もつづくと、不安がずいぶん遠くにある。目前にないのだ。たまにハローワークのHPを検索。気が乗らない。どうでもいいように思える。
いま面白いのは清水鱗造さんのHP「灰皿ネット」にあるゲーセンだ。ハマッテしまった。死ぬのは怖いので厭々ながら日々を流していくのだ。死は目前という切迫が封印されているのか。ここに骸骨人としての問題がある。
詩とは脱糞である。。。
読者は、脱糞愛好者だろう。わたしもそうだ。実に悪趣味ではある。顰蹙の言であろう。理解は求めない。ちょっとしたメモですが。
ふと思うこと。。。
失業者が味わう開放感は黒く焦げるような孤独感に接続している。胸焼けが収まることはないのだ。
2003/5/6(tue)
同感。。。
中島義道『たまたま地上にぼくは生まれた』(講談社)から引用。
「ともかく、勝手に生まれさせられて、たかだか七、八十年で死んでいくんですが、その間の人生もひどいものですね、はっきり言いまして。そういうようなこと自体をやはり私はずっと考えて、今まで来たわけです。一つの言葉で言えば、すべて「理不尽」、理にかなっていないわけです。この前のテロもそうでしょう。殺された人は別に悪い人でも何でもなくて、ある人が殺されてある人が殺されなかったわけです。ある階から上にいた人が死んで、それから下にいた人は助かったというわけで、よく見てみれば、人生の実相は残酷きわまりないわけです。
それにもかかわらず、学校では私からすれば嘘を教えるんです。がんばりなさい、そうすると偏差値がこう高まって、この大学に何パーセントで受かるかもしれない、そういうことを教えるわけです。しかし、がんばってもだめかもしれませんよね。それを知りながら、大人たちは子供たちを励ましたいんだと思います。ほんとうのことを教えてしまうと危険ですから、つまり、どうなるかまったくわからないんだとか、人生はまったく理不尽とか、あした死ぬかもしれないということをみんなしっているわけですけれども、それを強調しますと、社会共同体がうまく機能しないということがあって、努力すれば報われるというフィクションを教え込むのです。」
「月に五十冊ぐらい本を読んでいました。・・・なぜかというと、いろいろなことを知りたかったからです。勝手に生まれさせられて、たちまち死んでいくことの意味、という自分の問いにちょっとでも引っかかるような本です。」
2003/5/5(mon)
求職のこと。
10日ほどまえ、派遣会社に登録したので、明日からは連絡待ちだ。仕事は工場まわりのパート社員。待機中なので、暇なようで暇ではない。いつものようにジョナサンでコーヒーなど飲みながら読書ということだ。
2003/5/2(fri)
旅行から帰宅。
いま長野の友人の家から戻る。
何だか疲れている。
さて、明日は実家に帰る。
そして昨日失業状態10ヶ月目に突入。
2003年6月
2003/6/3(tue)
世界最古の職業は。。。
売春婦といわれている。なぜか第2番目の職業は、葬儀屋ではないかと思いついた。宗教的な儀礼で祭司が執り行なうのだろうが、その周辺の仕事をする人に対価を支払っていたのではないだろうか。人の死の哀悼は最古の儀式だろう。そこからの連想で思ったのだ。。。
2003/6/1(sun)
お人好しについて。。。
古い友人の口から「なんだな、お人好しって頼りにならんな」という言葉がもれた。
まったく、そうなのである。わたしがお人好しなのでギクとする。この言葉は、体験から生まれた洞察であろう。やはり、お人好しという人は「人間」についての知識が欠落していると言える。体験や観察から「人間」についての知識は生まれる。多様な人間の言動が現す、その意図をよくわかる人ならではの言葉だ。お人好しは、人に利用され支配される。イジメも受ける。お人好しは、まず「人間観察」を学ばなければならない。
2003年7月
2003/7/8(tue)
鼻毛が仕方なく伸びる。。。
近頃、鼻の穴から鼻毛が数本飛び出していることに、気づくことが多いような気がする。
仕事先で、手持ち無沙汰の時間がたまにあるのだが、たいてい指で鼻の穴の淵をなぜてみると、鼻毛がふれるのだ。
きれいずきのわたしとしては、放っておくことができぬ。
机の引き出しから、ハサミを出して、鼻毛の先を指で摘まみ、うまくハサミでカットするのだ。これで身だしなみOK。ここまではいい。問題は看護婦さんたちが、いつ仮眠室の鍵を取りに来るかだ。見られてしまえば、鍵が不潔に感じられるかもしれないことだ。いや、必ずや思われる。
翌日には看護婦全員に知られるだろう。ううむ。たかが鼻毛、侮れず。きれいずきのわたしの方は知られることはないだろう。つくづく人生の理不尽を感じる日々を送っている。
2003年8月
2003/8/31(sun)
もろもろの権力のひとつ。
根石さんと電話で話していたら、わたしの耳につぎの言葉が刺さった。
「掲示板の書き込みだって自己権力の行使なんだぜ」
なるほど。力の権力、政治権力の行使などの根底に横たわっているもの。
それは、言葉の発声なんだ。だれもが自己権力を行使している。
このことを忘れてはなるまい。
2003/8/29(fri)
権力について何を知っているか。
人間社会を成立させ維持発展を可能にしているのは、もろもろの権力である。頂点にあるのが国家権力であるのは自明だ。
では、国家権力はだれのものか、当然にも日本においては民主主義政体であるから、国民のものである。国家権力行使の責任は、だから最終的には国民にあることになる。
では、国家権力運営の実行を担当するのは誰か。もちろん政治家である。国民が政治家に権力運営を依頼しているからだ。政治家が権力運営に失敗すれば、選挙で責任を問うことになる。
なぜ、わたしが、こんな当たり前のことを書くのかと言えば、「あらかじめ反権力」という姿勢で、やたらに「なんでも反対」を提示する人たちに、疑問を持っているからだ。
権力が、なぜ存在しなければならないか、という根本的な問題を考えたことがないのではないか、と思うからだ。
あなたは、この人類最古の問題を考えたことがありますか?
2003年9月
2003/9/27(sat)
性格と運命。
以前から感じていたが、転職を重ねるうちに、自分のひとに相対する性格に問題が在るように思えている。そう思うに至った。人から見ればさしたる性格ではあるまい。
「だれもが自身の固有の感受性をそなえている」このことが性格を形成しているのだろう。
このようなことは、だれでも考えているはずだ。たいていの人が悩むのではないか。すこしは開き直っているのだろうか。
「性格こそ運命の導き手」(ヘラクレイトスの言葉)
まったく、そのとおりだ。自分を考えても、人のあれこれを思っても。
2003/9/26(fri)
「ぺらぺら」9号、印刷へ。
さきほど「ぺらぺら」9号の版下を印刷所へ送った。印刷所といっても、友人が印刷機と折り機を持っているので、そう逝ったのである。さすがに閉じることまでは出来ない。
なんと2年8ヶ月ぶりの刊行である。まあ、そんなもんだ。その気になったときに出すのが原則なのだ。
言い訳めくが、平居謙さんがプロデュースしている『Lyric Jungle』に2年間書いたことも理由になるだろうか。これから同人から会員になり、1年に1回書く約束だ。そうだ金井雄二さんの「独合点」にも書く約束をしていた。
「ぺらぺら」も年1回は出していくつもりです。
9号は10月20日発行です。灰皿町住人の皆さまには、出来次第お送りいたします。
2003/9/12(fri)
「ぺらぺら」9号の発刊。
いよいよ、8号から2年8ヶ月ぶりに9号を発刊する予定。10月の初めか中頃になります。ほぼ原稿はそろっていて、編集作業が発刊時期を決めることになりそうだ。
われながら呆れるほどのマイペースだ。一度9号を出す予定で原稿を集めたことがあるが原稿を頂いた方に迷惑をかけてしまった。すみませんでした。マイペースというのもはた迷惑である。勝手に頓挫してしまった。
言い訳めくが、平居謙さんと山村由紀さんが責任編集の季刊『Lyric Jungle』に創刊号からいままで(7号)同人であり、締め切りに追われていた(?)のです。
ううむ。言い訳になってないか。ま、いいか。
今回の「ぺらぺら」9号の執筆者は秘密ですが、すべて詩だけの掲載になります。「ぺらぺら」は売り物ではないのでタダですが、今回から一応定価を100円とするつもり。催し物で出店を想定しているからです。
2003/9/5(fri)
奥村真さんの詩集から引用。
分別の盛り場 奥村真
噴水のへりに腰をかけて
風を描いている子供たち
空を呑み込んだり吐き出したりする青年たち
大地に雪駄で降り立ち
足を洗っている渡世人たち
ごみ箱を漁っている隣人たちの傍らで
老夫婦が日向ぼっこをし
樺色の列車が走り抜ける
こんもりした繁みのなかで
地鎮祭に集う愛人たちや
一列に並んだ斑らな鳥も
バタバタ降りたり留まったりするけれども
噴水の音でかき消され
我慢に我慢を重ねた
こころが静かに壊れる
働きかたがわからなくなって
いっとき路頭に迷うだろうが
またこころは生える
たとえ前後のみさかいがなくなっても
別の触覚がきっと働きだすだろう
アリもキリギリスも互いに尻尾を噛み合って
次から次へと踊り出す
ここは朝もやと夕暮れの中間駅だ
広場には怠け者たちがこぞって生き残り
古巣からもちよった残飯を食卓にならべる
最後のひとりばかりが集う枯れた空き地で
時計に目をやりネクタイを締め直し
飲み残した缶をぐいっと一気にあおる
奥村真詩集『分別の盛り場』
発売元『白地社』、編集協力:長谷川裕一
A5版、242P、送料込1,800円
2003/9/1(mon)
「役に立つことば」をほどく 足立和夫
私は「季刊ぺらぺら」という個人誌を出している。もう一年以上たつのだが、その第2号の「あとがき」に「役に立つことば」ということを書いた。次の文がそうである。
(以下、引用)
ことばはナイフのように凶暴に腹に刺しこまれるこあるが普段は心の血液のようなものである、と思う。
「詩作品」の意味を無視するわけではないが、「役に立つことば」というものが詩の役割として機能することがあ る。
謎のような生存の深みに嵌まってしまった人にとって、ことばのビッグバンが産んだ心の闘争は避けられないもの だ。
例えば、窮地に追い込まれる、あるいは単なる心の落ち込みに対する処方箋としての次のことば。
「強気にしろ、弱気にしろだ、貴様がそうしている、それが貴様の強みじゃないか。・ ・・・・・・貴様がもとも と屍体なら、その上殺そうとする奴もあるまい」(小林秀雄訳・ランボオ)
そんなことばを、もう一つ得た。
「またこころは生える」(奥村真)
この奇妙なおかしみのある詩句には、深い慰めと励ましが、たっぷり含まれている。私も、可能ならいつか「役に立つことば」を創ってみたいと思っている。
(引用終わり)
この「役に立つことば」の鉤括弧は強調しているわけではなく、ちょっと違うぞでも取りあえず、という気持ちを表わしているのであって、書きながら、ことばは大工道具ってわけじゃないぞ、と思っていた。要は詩句のその一片のことばが脳に強く刻印される事態がしばしばあることがいいたかったのであり、不遜にも私の書く手からもそんなことばが出ないかと思ったのだ。つまり、その時点では適切な表現が見つからないまま「あとがき」を書いたのだ。私の不明である。だが、この不明には詩とはなんであるのか、という問いかけに応えられない曖昧さが棲んでいる。
誰もが生きて孤独のなかで経験する現実。その困難に出会って屈してしまったとき、もがきながら血液のようなことばを求めるのではないか。思わず手をのばし空を掴む。どうすればいいのか。激しい暴力の渦巻きを引き出すひともいる。通常の文法や形容、意味を超えたことばを引き出すひともいる。このひとは詩人なのか。沈黙のなかに深く降りていくひともいる。うろたえて身も心も縮んでいくひと。酒を飲みとどまることを知らずすさんでいくひと。このひとたちにとって、ことばは何なのか。
ある詩の朗読会、というか何人かの詩人が自作の詩を持ち寄り、その書き言葉を自分の声で模倣するという趣旨の会合を見にいった帰りに、電車のなかで奥村真さんが、酒に酔った口で「詩というのは、端的にものをいうことだよ」と私の酔った耳に吹き込んだ。そうなのかと思う。酩酊のなかではあったが、印象が強かった。いずれにしろ詩は個人の胸のなかで響く。まれにだが世界を視る方法を学ぶことさえある。
私の場合、とくに暗いといわれる詩を好む。偏愛しているといってもいい。粕谷栄市の謎めいた詩篇は最も好むものである。世界が在ることの驚愕。そして在るという謎のなかで生きるしかない人間の姿。謎のままが日常なのだ。登場人物たちは通常の意味づけを剥がされていて、世界が在ることの謎を見るその視線によって記述される。
粕谷栄市は詩人である。はばかりなく断言する。なにをいまさら、といわれようが私は声を大にしていう。粕谷栄市は立派な詩人である。しかしだ、問題は私の方にいぜんとして残される。詩とはなんであるのか、という問いかけが。たぶん判っているのだ。書いたものを目の前に積み上げろ、と。積み上げた者のみの問いかけなのだと。見るまえに跳べ、ってことなのだ。だからこそ「季刊ぺらぺら」を出しているのだ。と、納得するような気分になる。まるで自分が地中に眠る不発弾になってしまったようだ。
不発弾は思う。ことばは他人がいなければ存在しない。同じことだがひともまた他人がいなければ存在できない。毎日出会っている挨拶。ちょっとした会話にも、ほぐれない縄の結び目のようなあの底光りする「狂気の種」が確かに潜んでいる。そうではないか。だからこそその種が、なぜか発芽したとき「地獄とは他人のことだ」(サルトル)と叫ぶのだ。自分が異物であるような拭いがたい恐怖が閃光のように走る。息が詰まる。わたしは何者なのかわからない。つい過剰なコミュニケーションを試みてしまう。あるいは、闇のような沈黙のなかでじっと動かずにいる。恐怖が自然に失せるのを待つのだ。そして闇のなかの手が詩を書きはじめるのだろう。
まだ私が小さな子供のころ、「ぼくは死ぬの?」と母親に訊ねたようだ。訊ねた憶えはないが、自分が確実に死ぬことを悟った記憶がある。きっかけがどのようなことか憶えはない。だが絶望の小さな種が確かに産まれたのである。その種は、中学生から高校生のある時期、自分の生が歪んだかのように、烈しく芽吹いた。暗い春のなかにいた。「生まれてきた以上は死んでいかねばならず、生きている限りは不幸から逃れることはできない、ということ以外に人間にとって確実なことは何もない」(クリティアス・断片)狭く深く疑問の螺旋階段をのぼりはじめたのだ。また自分の肉体が、それ以外のものではない窮屈さに、叫びのようなものが喉に刺さった。ことばを発することがわからなくなった。無口になった。ひどく怯えた雛のようだったのを憶えている。
いまは日常の表層に浮かぶことばで詩がかかれることが多いようだ。しかし、あの「狂気の種」や「絶望の種」が見えてこない。このことには誰もが無関係であるはずがない、というのが私の確信である。もっとも二十数年まえの難解な現代詩の再来はごめんである。いく人かの詩人をのぞいて、すっかり現代詩が嫌いになってしまった。あれに比べればずっといいとは思う。おお、思わず私の傲慢がふくらんでしまった。軽い人間は、すぐ高みにのぼってしまう。心せねばなるまい。
たぶんいまの時代には詩人の姿、あるいは詩人像がなぜかみえていない。もしかして、ひとは詩人を必要としなくなったのかもしれない。古代の詩人の姿とは、原始の言葉を憑かれたように発する巫女だっただろう。
「シビュラ(神巫)は、狂つた口で、笑ひもなければ、飾りもなく、また滑らかさもない言葉を吐き(その聲をもって、よく千年の外に達しているが)、それは神によって語るからだ」・・・神意を神がかりにかたつた神巫の口から聞くことは、古代ギリシャ人の日常事であつた・・・(田中美知太郎訳・ヘラクレイトスの言葉)
※ 初出 『詩学』 1997年5月号。
2003年10月
2003/10/9(thu)
「ぺらぺら」9号、発送終了。
9号発送終了。皆さまのお手元に届くのは、明日か土曜日になると思います。
すでにお手元に届いた方から、早々と感想をいただいております。ありがとうございます。この場を借りて、御礼申し上げます。
わたしの気持ちを申し上げれば、嬉しいの一言につきます。
また、届いてない方でも、メールでご一報いただければ、早速お送りいたします。お気軽にどうぞ。無料ですし。
とりあえず発送の顛末でした。
2003/10/4(sat)
「ぺらぺら」9号、只今発送中。
発送は後半に入りました。まだ、住所を確かめないといけない人もいます。10月10日(土)までに、皆様のお手元に届くように頑張っています。
今までの在庫は、創刊号がなくなり、ほかはまだあります。9号も含めご希望の方は、メールにて連絡をください。差し上げます。遠慮はいりません。お気軽にどうぞ。
2003/10/1(wed)
ぺらぺら9号発送作業。
9月29日に「ぺらぺら」9号の印刷・折りが、届いた。
夜だったので、すこし折込をして、ホッチキスで留めて、20冊ばかりつくる。
今日から、「折込・ホッチキス留め・発送」の一連の流れをはじめた。
灰皿町住人の皆さまには、今夜、杉並郵便局に持ち込みましたので、金曜日くらいには届くでしょう。
仕事が24時間勤務のため、発送作業は、10日はかかるか。
根気がいる作業だ。
2003年11月
2003/11/4(tue)
書き下ろ詩
152年 足立和夫
百五十年以上も会社に通勤していると
行き先もいろいろだ
向かう方向も正反対になることは
しばしば起こることである
朝の電車の顔ぶれも見知らない
ほとんど亡くなってしまった
吊革の歴史を憶えているのは
もうわたしだけだろう
こんなに老いた者を
まだ会社は首を切らない
理由を知ることはないが
ただ働けばいいのだ
暗黒の街に住み
日々が流れていくと
顔が真っ白になる
それはサラリーマンの証しである
引き換えに
自分が誰であったか
わからなくなる
それはどうでもいいことなのだ
必要もないことだから
会社の動きが生活である
わたしの心には歴史もなく
じつは永遠もないのである
のっぺらぼうのゆで卵みたいなものである
給料はわたしを通りすぎていき
銀行で紙幣たちが
瞬時に何かに変身していく
百五十年以上も時間を経ると
それらの出来事は
どうでもいいことなのだ
人生を超えたことなのだ
会社はわたしの人生を買っているのだから
買われている人生が何であるのか
わたしは知ることはない
ただ暗黒の街への懐かしさだけが
百五十年以上も生き延びている
それだけは確かなことだ