波之郷
三井喬子
海岸線からは二十里。
雨の音を聞く夜
一筆書きの輪のように曖昧に閉じ
閉ざされて眠れない 眠れない
ご機嫌いかがと
階段の上から声が滴ってくる
古い人の声が下りてくる
もうお休みかえ
一人でお休みかえ と
海岸線からは二十里。
さても寂しいものだ 環状集落の雨の夜は。
耳の大きなものは寄っておいでと囁かれ
大きな耳朶はないけれど 寄って見る
懐かしいかえ
そうかえ
今夜は波之郷にも潮みちる時さね
一口に言えば千年目の回帰やも知れぬが
親の 親の親の 遠い声だ
四百年の祖の住まわしたあたり
うっすらと潮のにおいがする
哭いている犬の鎖を外しておやり
鶏小屋の扉をひらいておやり
大きな鶴もやってきやるだろうが
追うでない
恋する鷺が立ち尽くす
波之郷、
会いたいの
ただ会いたいのよ
幾つかの田を渡り川の流れに沿って来たの
(潮に追われてきたの とは言わなかった
長い時間を乗り越えて
ひた ひた ひた と
あの少女のように帰ってくる
帰ってくる
物語を失った波の郷に
水が。