モーツァルトからアルベルト・サヴィニオまで

モーツァルトからアルベルト・サヴィニオまで

有働 薫

 モーツァルトの「やさしいソナタ」k545にこの秋から挑戦している。高齢になってからバイエルを独習しただけのスキルでは、全曲完成などはとてもおぼつかないのだが、耳で聴くだけではなく、眼で楽譜をたどることは、もぎたてのレモンを丸ごと絞るような香気を独占する喜びがある。3大交響曲作曲の合間(1788年)に作られたこのピアノ・ソナタは「やさしい」とタイトルが付いているが、どうしてなかなかの難曲で、譜面上はシンプルだが、3大交響曲と同レヴェルに造り上げるのは至難の業だということで。「やさしいソナタ」はアレグロ→アンダンテ→ロンドアレグレットの3楽章から成る。イングリット・へブラーの癖のない無色透明な演奏が私は好きだ。よく思うのだが、モーツァルトほど形式に桎梏を見せない音楽も珍しい。形式こそ自分の音楽の信頼に足る枠組みだといわんばかりの、形式に対する全幅の信頼をみせて曲が進行し構築される。形式に対して不満や不便を漏らすことは一切ない。形式こそ自分の音楽の揺り篭であるとの信頼感がそこにある。だからこそモーツァルトの音楽は古典派と呼ばれ西洋音楽の嚆矢であると言い切ることができる。17世紀イタリアで発生したピアノを含む様々な弦楽器が現実世界に勝るとも劣らぬ音楽世界を創り上げて以来、300年以上後の21世紀の現在もなおさらに充実の大世界を(神の創造にも迫る)進行して行こうとしているのは、人類の奇蹟だともいえる。音楽あっての人生、人生と等価の、現実と交換し得る世界。それは様々な楽器の発明に頼っていることでもあるのだが。モーツァルトは死のほんの2か月前まで改良クラリネットでの曲造りに熱中していた。クラリネット協奏曲k622、天上を流れる綿雲の音楽、親友のクラリネット奏者アントン・シュタードラーと、ああでもない、こうでもないと言い合いながら創り上げた、モーツァルトのこの世への置き土産だ。
 モーツァルトの音楽の形式との親和性はわが国の俳句に似ていて、形式によって単純化され結晶化した鉱石の硬さを持っている。最小の言葉、最小の音、最小の獲得、最小の主張、最小の時間、最小の手段によって最大深度の世界を獲得する。
 20世紀初頭のイタリアの音楽家アルベルト・サヴィニオは画家ジョルジョ・デ・キリコの実弟で、オペラの創作に心を奪われた総合芸術の天才である。当時の巨匠から彼の作品は粗略に扱われ、この天才は見殺しにされた。モーツァルトが「ドン・ジョバンニ」に没入したと同等の天才をサヴィニオが20世紀に再現するはずだったのに。彼は兄に掠め取られ、失意の生涯を生きた。ややこしいのは、兄が弟をこよなく愛していたことだ。この肉親の簒奪者、この天上の音楽の蹂躙者はこよなく善良だった。
 いやそうではない。家族肉親の情愛はかけがえがない。同じ根から生え育った背の高い2本の杉の木。没後69年、サヴィニオの残した作品を愛する本物の人々が日増しに増えてきている。