この雑踏に立てば、いろんなオトが聞こえてくる/街角に群れる(形而上学的考察)

この雑踏に立てば、いろんなオトが聞こえてくる/街角に群れる(形而上学的考察)

冨澤守治

この雑踏に立てば、いろんなオトが聞こえてくる

日々は尊い、忘れないでいて欲しい

この雑踏に立てば、いろんなオトが聞こえてくる
わめき声、会話、急ぐ人、意識は散り散りに乱れ飛び、混乱しただけの脳波が充満している
初めてのひとは困惑し、毎日のように同じ時間に同じところを歩くひとびとは何も考えていないだろう
苦痛を背負うか障害を負ったひとたちはつらそうに歩く、ただこの場だけでも誰かでも助けてやれれば良いのに、誰も助けてくれない
夢多き若いひとびと、はしゃぎ踊り明かすように歩いていく、あなたたちはどれほど幸福か。どうか忘れないでくれ
私はといえば、ますますそんな日々を忘れていく。あなたたちよりも上の齢のひとたちはみんなそうなのだから

風の数ほども夢は散り、年末の街頭に散る雪のごと
乱れ飛ぶ暴風の雨粒のように、絶え間ない歳月は流れ
はたまた猛暑の日射に潜む、はらわたを煮える悪寒のように
すさまじいほどの不安は常に在り、愛するものの死と自らの苦痛にも出会う
絶望を騒ぎ、隠して行く春の日ののどかな桜の散るように
この街頭のウタ、詩はすべてのひとの人生を背負うのだ

幸福とはなにか、若いときからもうずいぶんと長い間、考え続けている
どうしてもこうしても、この街角は哲学者なのだろう
でもこのまえある小さな子供に言われた
「お前は神様になったつもりでもいるのか?いったいどんな神だ。」
恫喝のようにその声は聞こえた
それでどうしたかといえば、実はまだなにも答えていない
その子はもう消えた

別に珍しいことでもない
一度会ったひとにもう二度と会わない
街角でそれは少しも珍しいことでもない


(このページの趣旨について  酒菜1丁目1番地 first posted at 2020.oct 10.17)



街角に群れる(形而上学的考察)

冬の夕暮れ、暗い
今日は人が多かった。雑踏
しかしこれは群れではない
行く道はそれぞれに違い
不思議に衝突することもない

群れることには繋がる意思があり、それは明白なものではあるはず
このひとびとの集まり様は、むしろお互いを避けつづけている
声をかけてみよう
ふしぎな顔をする。あるいは不機嫌にうるさがれる

枯れた街路樹の樹の下
葉々は集光上もっとも適切な配置をして
触れ合うでもなく、まったく無駄がない、空間、葉と葉のあいだ
この街角の人間という動物種と一体どれほども違うのか
こうしてみると、人間の知性などどれほどの意味があるのかと思う

さらに生物の数万年という時間の流れのなかでは、生物種は大半が絶滅してそのほんの一部だけが祖先となり繁栄してきたのだ
多系統の生物の存続の豊富さ、それから見れば、このなんの変わり映えもしない、知性があるとて特別でもない人間たちもいつまで生き残れるのだろうか
街角に集まりながら、何も産むことのない空虚さ。街角を作った人間たちは、実は街角に必ずしも必要ではないのだ

この街角を数万年後、闊歩するものは一体どんな生命体か、それとも誰もいない不在の荒れ果てた街角だけが残るのか
この街角は廃墟としても残るだろう。しかし誰もこの街角を片付けてくれるものもいまい

街角にはなんの統一的な意思もない
さらに「街角」は人間だけを映すものでもない

むくどりの群れる姿を見る。大群
追い出された鳩たちがときどき人間のバスの待合室にやってくる
この鳩たちも行く道はそれぞれに違い
不思議に衝突することもない

何事もない日々の一日は尊いと言うが、それはそれほども文化的に、つまり人間専有の造形的なものでもなく
ただ集まり群れている(ように見える)ということも、知性も本能もその発現してくる「非論理の無を直感すること」に生み出されているのか?
私達の知性はそれを知ることさえもできないし、本能はそれを意識することもできない
集まっても当たらないことは自然の法理にそっている?
それだけかも知れない
だとすれば「自然」そのものが発現しているのだ
空間概念・ものの後先・順序、つまりは「時間」、それらは直感された自然の後付けで「解釈」して、そう名付けただけのものなのだ

何事もない日々の一日、非論理の無を直感していれば、「それ」はできる
しかし忘れればこの街角も大混乱するだろう
この街角も「自然」の灯りに照らされて、何事もなく、一日が過ぎていく


(このページの趣旨について  酒菜1丁目1番地 first posted at 2020.nov 11.23)