時計
冨澤守治
誰でもがそれを知っている
幾許かの声を聞かせては、それらは名残り、こうしている「いま」にもかすれていく
記憶に刻まれた多くの物語りたち
置き去りにされることもなく
流れる文字放送のように、私たちに見えるのだが、忘れられていく、忘却
そんなことを見るたびに、ただひとつ、ぼくは気がつくのだ
その物語の時間は、もういまは終わってしまっているということ
それがどれほどか、心に傷跡を残しているものであっても
そこに記(シル)された時間だけは、取り返すことはできない
そしてそれらがあまりに空しくて、口惜しいものであっても
あと少しでも時間があれば、あと少しそんなチャンスがあればと思う
あとひとつ、あとひとつと、あと少し
嘆きは多く、笑いが少ない
愛は少なく、性愛が多い
むすめたちの腰のあたりが気になる、寡黙で恵まれない若者たちよ
別にそれは悪いことではない
いつかそれは至上の愛につながっていくだろう
いまは、ただひとつの大切なときだ
愛を夢見るものたちよ、ふさぎこむな
私もまさしくそうなのだが、忌まわしい中年の男ども
彼らは本能に見境いもなく、目にするすべてのものを経済的価値に切り替えて
正当化する
生活に必要な価値にだけ群がり、性愛を忘れたおばさんたち
生命と存在の理想を忘れてはいないか?
その有様こそはまさしく生存本能そのものではあるのだが、もう用はないらしい
しかし理性の立場からすれば、誰もが何かが論理的に間違っている
「時、トキを過ごす」とはそれらほども「切実な」ものであるか?
呼びてかえりこぬ青春のひとコマがいつまでも続かないかのように
本来の人生の貴重で清らかな時間はどこに行ってしまったのだろう
日々は毎日のように変わりなければ良いのだ
多くの、多くのひとびとが時間を過ごしては、カレンダを数えて、見つめている
もちろんただちにこの国の、この21世紀の初頭にはいかなる反論も可能である
「トキは耐えざるを得ない」のではないだろうか
走り去ることもできずに、ヒトはうずくまっている
分別のあるものたちよ、それを「優柔不断」と非難するか
そうではあるまい
事態は深刻だ
ぼくがこんなことを書いている2010年12月21日、火曜日
街に出てみれば、いつもの午後は年の瀬の匂いもせずに
ようやく寒くなり、冷風が吹きさらす
雲がこの惑星を覆い、行灯のようにこの大地を照らしている
いくもの消えていった命を思い
いくつもの理不尽と、それらが持たらす絶望を思い
力ない自分を思い知らされる
いったいこんなになっても、もうすべきことの道筋が見えているのに
こんなにも答えの出せない、この「われわれ」というのは
いったい、何者なのだろう
時間は過ぎていく、チックタック、チックタック
ずいぶんと長い1年であったようにも思われる
去年のアンソロジーを見れば、政権交代があったようだ
ずいぶん古いことのように感じられるのは、長い、本当に長く暑い夏があったせい
だけだろうか?
これからも語られる言葉は多くあるはずだ
それはとてつもなく長い言葉になるはずだ
「時間」に話を戻そう、「いま」は絶対的に重大なことだ
「時計」というものは、実は「いま」を刻んでいるのだ
思えば私たちの頭を満たして、気がつけば心の奥底を浸して、侵していく
記憶のなかにあるキズには、いつも「いま」の文字がかけられていく
そんな罪なき罪状の「緋の文字」ども
そういうのを濡れ衣というのだ
冤罪は覆されなくてはいけない
−しかし世間にはなんと多くの人々がこの「冤罪?」に苦しんでいることか−
−念のために云っておく、不正な刑事手続きがあったことをいっているのではない−
−あれも本当にひどい話だ−
時間は過ぎていく、チックタック、チックタック
社会という「大池」の淵からは、逃げることのできない波が反して、襲うものだ
忘れるな、ひとときの回避行動の犠牲になったひとびとの苦痛を
数え切れない犠牲の連鎖よ
チックタック、チックタック、時計は「いま」を刻む
この時代は循環論法にせまりやすい、やがて意識は朦朧とするだろう
まさしくすりガラスの日々が続いている
どうにかして抜けたいものだ
時計の法則に則り、もう忘却してしまいたいのだ
よくもこれだけ耐えている、そんな行き先の見えないという、絶望が始まる前に
別の道へと歩むのだ
真実の時間の経過、ときめき!
そのときはいつ来るのか
もう時間の割れ目が見えるぞ、とどろき!
昨日も雷は鳴り響き、目の前が真っ白になった
気がついてくれ、サージ電流に戦慄しているだけで、なにも知らないままにいる
友人たちよ
この年の瀬
寒く震えても
身を翻して、寄せる狂気は避けよ
うつむくよりは
深く思考せよ
来る春に言葉を挙げる、ものたちよ
(2010.12月)