左右の距離
有働薫
一九二五年度ノーベル文学賞を受けたイギリスの劇作家バーナード・ショーは彼の代表作『聖女ジャンヌ・ダーク』中のト書で、ジャンヌの容姿を次のように描写している。
「十七、八歳の健康な田舎娘。上等の赤い服を著てゐる。非凡な顔。二つの眼はたいそう離れてゐて、想像力の強い人間によく見受けられるやうに突出してゐる。鼻筋の通った形のよい鼻、大きな鼻孔、短い上唇、意志の強さうな、けれどもふつくらとした口許、やはり負けぬ気らしい、均斉のとれた顎。」
ショーはこの描写を、単に自分の想像のみで行ったのではなく、この戯曲の冒頭に付された序論のなかで、次のような資料を紹介している。
「当時オルレアンの彫刻家が、冑を被った娘の彫像を作ってゐるが、明らかに想像による作品ではなく肖像であるといふ点で当時の美術として特異なものであり、しかもその顔たるや極めて非凡であって、このやうな顔付の娘が嘗て二人以上存在したとは到底思へぬ程である。」
そしてショーは自分の意見を示す。
「無意識裡にジャンヌが彫刻家のモデルになってゐた、さう推測してよいと思ふ。勿論、その証拠は無い。けれども、異様な程離れたその二つの眼は、強烈な説得力をもって問ひかけて来るやうに思はれる、「これがジャンヌでないのなら、ジャンヌはどんな顔の娘だったのか」と。」
小野小町も紫式部も清少納言も、さらに遡って光明皇后も額田王も、はては卑弥呼、さらに白拍子の静、常盤御前でさえ、どんな容貌の女性だったのかを知りたいと強く思ったことはない。
だがジャンヌ・ダルクについては、ショーの場合は自作の戯曲の主役として容姿の指定は避けて通れぬ条件であったわけである。
ジャンヌ・ダルクほどさまざまな彫像、絵画に表現された女性はいないかもしれない。はだしで糸巻きを抱いた少女であったり、吏員系といわれるような、ブルジョワ風のビロードの衣装の町娘だったり。
もしジャンヌの受けた異端裁判の記録が残されていなかったら、ジャンヌ・ダルクの実在さえ、疑問視されただろう。
異端とは突出すること。時代の秩序を超えて生きようとする。そしてショーの序論によれば「社会は不寛容、すなわち狭量を根底にして成り立っている。」
ショーの戯曲『聖女ジャンヌ・ダーク』をもって、今までのところジャンヌ・ダルクについての実像と評価は決し得るようだ。
注 かっこ内の文章は新潮社から昭和三十八年出版の福田恒存・松原正訳『聖女ジャンヌ・ダーク』
による。