草男(くさおとこ)—出現
足立和夫
机の電話が呻きはじめ身が強張る
受話器をとると
声を吸い込んだままになってしまい
キョックキョックキョックキョック
キョックキョックキョックキョック
酷くどもる 吃音
極東倉庫です がすぐにはでない
わたしのなかの草男がすべてのそとを
拒絶しようと明滅するのだ
しかたがないので
鼻をつまんで気絶してもらう
会社のひとたちは軽くわらう
わらって緊張をほぐそうとするのだが
歪んで硬くなった頬のなかで
喉のおくから無口がせりあがってくる
机のうえに視線がさまよい
わらいを放散できない
話しかけてくるのだが
耳のなかで沈黙が膨らみつづけていた
椅子からずり落ちた草男は
なにかを低く喚き
ここからの脱走をかんがえるが
すべての精気が硬直し痩せたままだ
穏やかに息をひそめ
五年間居て辞めた
草男の汁の飛沫と湿った匂いが
さらに濃くなって
空にのぼり蟠(わだかま)っていく
緑色の闇 耳鳴りの深い空
時間が中途半端にちぎれたままだった
幻影かもしれないが
尖った誤解はつねに悩ましい
まるで吃音のように
こころは怪物なのでたえず発情して
生きがたく逝きがたい
ほとんどの時間を眠り込んでいる草男は
草の声でいった
空にのぼる蟠(わだかま)りは
放っておけば夜陰の河に流れてそれですむ、と
沈黙のための用意もしてみたが
孤独の底に落ち着くには
生涯の終息はいつも近すぎる
草の声はいった
草の葉のしたで生き抜いてしまえ
うまく隠れた者はよく生きるから、と
現れることだけがすべてではない
草の茎を折って汁を啜れば苦い
ひとの生は宇宙のなかで
燃える星に困惑し
謎のにおいを嗅いだままだから
そのまま終わるだけ
うつくしく光る朽ちた骨たちも
謎というわけだ
崖っぷちの静けさを知る者は
あまりいないが
草の葉は
晴天も 曇天も 荒天も
地上で穏やかにあたらしい空を
受けとめて生い茂る
緑色の闇 耳鳴りの深い空
草の声を耳に詰めて
夕色の世界を往く
断崖の草が生い茂るところで
いつものように草男は眠りこけている
風が崖を這うように昇ってきた
「ル・ピュール」7号(2008.9.28発行)に掲載したものを一部改稿しました。