第七十回目 加島祥造の「港町の風俗残映」
○最近では地方にセカンドハウスを持って週末通うという人もふえているように思うが、『加島祥造詩集』(現代詩文庫)の略歴や解説文などを読むと、この詩人はそういうライフスタイルを早くから実践されていたのがわかる。横浜に住んでいた著者は50歳の時駒ヶ根市大徳原に「伊那谷の小屋」を建て、最初十年位はときどき通っていたが(85年、著者62歳の時に刊行された最初の詩集『晩晴』の収録作品はこの時期のものという)、やがて本格的に家を建て92年にその地に定住された、という経緯のようだ。現代詩文庫の『加島祥造詩集』には横浜時代の思い出とともにお酒がでてくる詩が何編か収録されている。
港町の風俗残映
加島祥造
おれはかってハマの
ナンキン町界隈にいた
中華飯店の並び立つ本通りの裏には
バーが並んでいた----コペンハーゲン、シアトル、
ブルーガーディニア、
女たちはみんな
じつに猫みたいだったなぁ。
----賑わう飯店(ツァンチン)の通りから
すうっと路地に姿を消すさま
細いヒールで爪先だってゆく足どり
ドアから顔をのぞかせて呼ぶ手付
ドリンクをせびってすりよる腰付
だめと分かって男から離れる横顔
まったく、みんな
どこかしら猫に似ていたあなあ----
それも飼い猫じゃあないんだ
自分の喰いぶちは
自分でさがすノラばかり
けっして近よらない連中だ。
日暮になると
港の水から毛深い男たちが上がってくる。
犬みたいに路地を
うろつきはじめる----何か
嗅(か)ぎまわるような姿勢で、バーのドアを
覗きこんだり、そこから
吠えながら出てきたりして、ほんとに
彼らは犬みたいだったよ----
ジー・アイ、マリンコ
ポンコ、ピノ、グリック
こんな呼び名も、男たちも、
女たちとともに
あの界隈から消えちまった----
ナンキン町の裏路地のバーが
すっかりなくなったのは
ほんの二十五年前のことだよ----だがもう誰も
覚えていないかのようだ。
私の好きだった女は、
大柄で色白で気が強かったが、ある晩。
酔って
アパートの裏階段からおちて亡くなった。ただし
十年前のことだがね----これは。
*マリンコ(アメリカ海兵隊)、ポンコ(黒人)、ピノ(フィリ
ピン人船員)、グリック(ギリシャ人船員)
未刊詩集「帰谷」から
『加島祥造詩集』(現代詩文庫)所収
○時とともに世相も風景もかわる。著者のうたうありし日の横浜はそこからの距離が時間的に隔てられているというだけでなく、たぶん作者自らの生き方の隔たりが重ねられているために、独特な深い感興が伝わってくるというところがある。新川和江と共著の詩集『潮の庭から』という詩集に、そんな記憶の横浜と自らの生き方の隔たりの思いをこめてをうたった情感あふれる詩「梅雨の唄」が収録されている。ちょっと長いけれど、お酒もでてくるので、以下に二連目から引用させてもらいます。
さよなら、港町のレストランよ、
私は老子のあとを追って
伊那谷にかくれたいんだ。
おまえは改築したそうだが
私の情緒はそうはいかないんだ。
さよなら、川岸のレストランよ、
店の前の夾竹桃は同じ色に咲いただろうが
私はもはや変わったのだ。かつて
幼い息子の手を握って、あの
板張りドアを押した男じゃない。
さよなら、すこし川にかしいだ店よ、
澱んだ水と荷足船になじんで
いつしか幾年も過ぎたが、
老子の好むのは
動いてやまぬ水なんだ、谷川の----
さよなら、操舵輪を壁にかけた店よ、
橋からむこう岸へ
去ってゆく女(ひと)を見送った私はいま
連峰のつらなる西空に
夕映のひろがるのを見ていたいんだ。
*
しかしこの町の港は
東にひろくひろくひらいていて、朝の
甘い希望ばかりに機嫌をとっている。
そして埠頭の片隅には
一隻の廃船がつながれている。
デッキにはビヤ・ガーデンの赤提灯
船室は修学旅行の宿泊所。
だがこれは、かっては
太平洋航路の華やかな客船だった、そして
ある都市の夏には
私の青春を乗せてあの大海へ
未知の大陸へ出ていった船だった。
廃船も私も
この港町につながれて久しい。
そしてこんな喘ぐ心は
自分もあの船と同じだと思うのです。
たづきとえにしのきずなを切れずに
やがて夏のきた日も
じとつく汗のシャツを気にしながら
化粧版と窓枠ペンキの新しい店に
坐ってきたが----
*
ああ、私には分かってるんです
もし私が今日のような夕方
友達か息子と連れだって
あの船のデッキに出かけて坐り
大ジョッキを片手に、さあ
梅雨ばらいだ、と笑ってビールを
ぐっとあおって手の甲で
口の端を押しぬぐえる人間なら
あの青田と蛙声(あせい)の谷なんか
恋しがったりしないんです。
加島祥造 新川和江詩集『潮の庭から』(花神社)所収
(註。5連目の「たづき」「えにし」という言葉には
原文では傍点がありましたが、表記できず略しました)
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