第五十四回目 トマスの「ぼくがちぎるこのパンは」
○前回とりあげた長田弘氏の詩「ブドー酒の日々」や、ボードレールの「酒の魂」の一節に似た葡萄酒と人間との関係についてのテーマは、ディラン・トマスの「ぼくがちぎるこのパンは」という詩でも語られているが、言われていることはもうすこし複雑で、ぐっと作者の主張や思想性がつよい作品になっている。
ぼくがちぎるこのパンは
ディラン・トマス
ぼくがちぎるこのパンはかって燕麦だった
この葡萄酒は異国の木の上で
その果実の中に飛び込んだ
日中は人が 夜は風が
穀物を引き倒し 葡萄の歓びを砕いた
かってこの葡萄酒の中で 夏の血が
葡萄の木を飾る肉の中に押し入った
かってこのパンの中で
燕麦は愉しく風にはしゃいだ
ひとは太陽を壊し 風を引き下ろした
君がちぎるこの肉 君が血管の中で
荒廃させるこの血は
肉感の根と樹液から生まれた
燕麦であり葡萄であった
ぼくの葡萄酒を君は飲み ぼくのパンを君はかむ
松浦直己訳『ディラン・トマス詩集』(彌生書房刊)より
○このパンはかっては燕麦だったし、この葡萄酒はかっては葡萄だった。どちらも太陽や風の恵みや破壊の力に耐えて育ち、人の手によって収穫され、こうしてここにある。人と自然とパンや葡萄酒は、そういうふうに繋がっているという意味で、それらを摂取してつくられる僕の体がパンであり、僕の血は葡萄酒だといえる。この詩のそうしたメッセージは、パンと葡萄酒がキリストの肉と血である、という伝統的なキリスト教の教義をふまえていながら、どこかその意味を否定するというより、無化しているところがある(教義的な聖性の意味を人間のほうにとりもどしているというように)。
もうひとつのこの詩の特徴は、自然や人間の力(外力)というものとそれにさらされる燕麦や葡萄との関係を、男女の性的な営みを思わせる喩え(それも暴力的な)で表しているところにあるように思える。訳語の問題があるので、この感じがどこまで当たっているのかどうかわからないのだが、危ういのを承知でいいたいことを言えば、たぶん私たちの文化風土は長い間みじかな栽培植物(穀物や果樹)の生育過程やそれらとの関わりの中に、こうした人間的(動物生的)な交歓のイメージを実感をこめてをみいだすことがなかったはずだ。だからこの作品の入り組んだイメージのこしらえ方にはっとさせられるところがあるように思えるのだが、その意味するところが、西欧社会でもつニュアンスやインパクトの強弱を計りがたいところがある。この詩はもしかしたらラブソングなんじゃないか、と思うところまでで想像がとぎれてしまうのだった。
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