第五十二回目 カーヴァーの「私の娘に」


私の娘に
     私が目にするものはすべて私より長生きするだろう

      レイモンド・カーヴァー


お前に呪いをかけるにはもう遅すぎるな----イェーツみたいに
じぶんの娘が不器量になってくれと願うには。僕らがその娘に
スライゴで会った時、彼女は自分の絵を売っていたのだが、呪いはちゃんと
かなっていた。なにしろアイルランドでいちばん不器量なとびっきりの婆さんだった。
でも彼女は安全だった。
ずっと長いあいだ私は、イェーツの言う理屈が
ぴんとこなかった。でもとにかくお前についてはもう
遅すぎる。お前はもう大人だし、すっかり美しくなってしまった。
我が娘よ、お前は美しき酔っ払いである。
でも酔っ払いは酔っ払い。お前のことを思うと私の心が張り裂けるとは
言わないよ。いったんこと酒のことになると、私には心なんて
ないも同然。哀しいことだ。どれほど哀しいかは神のみぞ知る。
シャイローと呼ばれるお前の亭主が町に帰ってきて
また酒浸りの暮らしが始まった。
もうこれで三日も飲み続けだとお前は言う。
私たちの血筋には飲酒は毒だということが
よくわかっているだろうに。お母さんと私とでじゅうぶんすぎるくらいその
見本を示しただろうに。愛しあう二人の人間がお互いをいたぶり
情愛を、酒と一緒に一杯、また一杯と空にしていった、
その呪詛と殴打と裏切りとを。
お前はどうかしてるぞ! そんな見本ではまだじゅうぶんじゃないと言うのか?
お前は死にたいのかい? そういうことなんだろうな、たぶん。
お前のことがわかっているようで、私にはわからない。
冗談で言ってるんじゃない。冗談ごとじゃないんだぞ。
お前は酒なんか飲んでちゃいけない。
最近何度か会ったときは酒をやめてたじゃないか。
お前の鎖骨のギブス、あるいはまた
割れた指、お前の美しい目のまわりのあざを隠すための
サングラス。お前の唇は男に口づけされるためのもので
裂かれるためのものじゃない。
ああジーザス、ジーザス、ジーザス・クライスト!
なんとかたて直さなくちゃいけないよ。
聞いているのかい? 目を覚ますんだ! 酒をきっぱり断って
まともになるんだ。馬鹿なまねはよすんだ。お願いだ。
オーケー、お願いじゃなく、命令だ。たしかにうちの家族はみんな蓄財よりは
散財に精を出すようにできている。でもそれを逆転させなくちゃ。
そんなこと続けているわけにはいかない----わかりきったことだよ!
娘よ、酒をのんではいけない。
お前は殺されてしまうんだぞ。お母さんや、私が殺されたのと同じように。
それと同じように。

        レイモンド・カーヴァー詩集「水と水が出会うところ」より
        村上春樹訳『水と水が出会うところ/ウルトラマリン』
        〔中央公論社)収録


○自分自身アルコール依存症で、最初の妻と離婚した経験のある作家が、あるとき娘夫婦も同じ道を辿っているのを知って愕然とする。娘に向かって、なんとかお酒を止めて欲しいと切々と訴える内容の作品だが、イェーツの詩に由来するエピソードを枕に読者の注意をうながして、しだいに事態の背景やその深刻さが明らかにされていき、最後に「死」を示す強い言葉で結ばれる運びに混乱はみられず、作品としてもしっかり構成されているという感じがする。詩人として三冊の詩集を出版して後に短篇小説集『頼むから静かにしてくれ』(1976)で一躍全国に知られるようになったというレイモンド・カーヴァー(1939〜1988)は、ほぼその生涯にわたって詩を書き続けたという。村上春樹氏は訳詩集『水と水が出会うところ/ウルトラマリン』の「解題」で、この本に収録されているカーヴァーの詩を「過去の出来事を記憶をたどるような形で物語った詩」「日常生活のスケッチ(日常と省察)」「旅行もの・釣り・狩猟もの」「象徴的な詩」「その他、カテゴリーに収まらない作品」)というふうに分類している。この作品は、二番目の「彼が折に触れて感じたこと、目にしたことを、いわば日記のように詩として書き付けたもの」に近いと思うが、こういう詩はどのように生まれるのだろう。一番考えられそうなのは、現実に娘の荒んだ姿に接した作者が、その時々に何度も心配して声をかけたり忠告したことがあったのではないかということだ。しかしその時には事態は何も好転しなかったのではないか、ということは、この作品に漂う無力感のようなものから推察できる気がする。作者は自分の焦燥感にかられるような切迫した思いを整理して作品化し、その作品を詩集に収録することで、あらためて娘の目にふれて彼女の心に届くことを願ったのかもしれない。







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