第五十回目 谷川俊太郎の「主人公」


○谷川俊太郎の詩にお酒の登場する作品はあまりない。もちろん膨大な数の氏の作品すべてに目を通してみたわけではないのだが、これまでに書かれている作品の量からすればけして多いとはいえないと思う。とはいうものの皆無に近いというわけでもなくて、たまに作品の小道具のように自然な感じで登場する(ざっとだが目を通したのは正続『谷川俊太郎詩集』と、既刊詩集12冊)。詩の流れのなかで、他の飲み物、水とかコーラとかコーヒーと同じように、適材適所という感じで使用されているのだ(詩集『日々の地図』(集英社)収録の「新宿哀歌」、詩集『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社)収録の「My Favorite Thing」といった詩で、酒はとても効果的な使われ方をしている)。


主人公

      谷川俊太郎


「長編小説の主人公やるのも楽じゃない」
ウォッカトニックを手にそいつは言う
「酒の飲みかたひとつにだって気をつかう」
私はといえば薄暗いバーの片隅でおとなしく
そいつのおしゃべりを聞いてやってる
「きのう駅前の本屋で
あんたはぼくの人生を買ってくれた」
そう千八百円は少々高すぎると思ったがね
「だがぼくは結局女に逃げられるんだ
三三〇ページの六行目土砂降りの雨の中で
ねえ自分の未来が分かってるなんて
残酷でこっけいだと思いませんか?」
そんな問いに一介の読者が答えられるわけがない
「小説が終わったらどうするつもりだ?」ときくと
「死ねますよぼくだっていつかはね
くもの巣だらけの古本屋の店先で」
そう言うとそいつはコートの襟を立て
物語の闇へ消えていった

        谷川俊太郎詩集『詩を贈ろうとすることは』〔集英社)より


○詩「主人公」の登場人物は、ハードボイルド小説の探偵みたいだから、いかにも薄暗いバーのカウンターでウォッカトニックを飲んでいるのが似つかわしい。全体のファンタジックでしゃれたショート・ショートのような詩の出だしにしっくり位置をしめている感じだ。作者は実際にはどんなお酒とのつきあい方をしてるのだろう。もちろん前提をいえば、「主人公」のような作品を書く人の詩に登場する「わたし」が、たとえばウォッカトニックが好きだと書いてあるからといって、作者もそうであるとは限らない、ということにつきるのだが、一方小説でも詩でもその縫い目のほころびに「作者」をみいだすような読まれ方をされることも事実で、そういうことにも当然根拠があると私は思う。以下に引用したのは、作品なんて虚構だというのが、かえって不自然というような感じの味わいのある即興詩だ。


2            武満徹に

飲んでるんだろうね今夜もどこかで
光がグラスにあたる音が聞える
きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
それをまぎらわす方法は別々だな
きみは女房をなぐるかい?

     連作詩「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」
     (1〜14のうちのパート2)
     谷川俊太郎詩集『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社)より






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