第四十六回目 伊東静雄の「うたげ」


うたげ

      伊東静雄


神にささげてのむ御酒(みき)に
われら酔ひたり
二めぐり三(み)めぐり
軍立(いくさだち)すがしき友をみてのめば
ゆたけくもはや
われら酔ひにけり

座にありし老叟(をぢ)のひとりの
わが友の肩をいだきて
ゑみこぼれいふ言(こと)は
「かくもよき
たのもしき漢子(をのこ)に
あなあはれ
あなあはれうつくしき妻も得させで......」

われら皆共にわらへば
わが友も自(みづか)ら手打(う)ち
うたひ出(で)しふる歌ひとつ
「ますらをの
屍(かばね)草むす荒野(あらの)らに
咲きこそにほへ
やまとなでしこ」

さはやけき心かよひの
またひとしきりわらひさざめき
のむ神酒(みき)や
門出(かなとで)をうながす聲を
きくまでは

        『定本 伊東静雄全集』〔人文書院)より


○出征していく若い兵士を送る宴。その兵士とは、年若い「わが友」なのだが、座に酒がまわって宴もたけなわという頃合いになり、ひとりの老人が彼の肩を抱いて「こんなに頼もしくたくましい男になったのに、妻ももたずに出征していくとは、不憫なことだなあ(美しい妻をもたせてやりたかったなあ)」と言う。その言葉に皆が笑ったが、青年は返し歌のように「兵士の骸が草に埋もれている荒地に(その魂を慰め鎮めるように)咲き匂うがいい、大和撫子の花(国の女たち)よ」というような意味の古いうたをうたう。その当意即妙の答えでまた座はもりあがったのだった。ただし、彼の出征をうながす時がくるまでは。
 この詩は『全詩集』の拾遺詩篇の中に収録されていて、『新女苑』昭和十九年二月号に掲載されたという。『全詩集』には、作者の当時の日記も収録されているのだが、十八年八月以降の日記の中で、行分け詩が記載されているのはこの作品だけだ。日記には、昭和十八年十二月十四日の夜にこの詩が書かれたとあり、翌日「「うたげ」速達する。」とある。また二十日には「『新女苑』に「うたげ」再稿を送る。」とあって作品が推敲されたのがわかり、二十六日の日録の記載のあとに、この作品「うたげ」が書かれている。こういう詩の成立していく周辺の細かいことを読んでいると、興味深いことがわかる。ひとつは、十二月九日の記載に、「庄野君の家へ送別会にゆく、大竹海兵團入隊」とあり、この催しが、詩「うたげ」のベースになったと推測できることだ。「先生、友人、親類、隣組等約二十名。」ともあり、この送別会の規模が想像できるのだが、そのあとに「あゆと、つゐしようといやなふんゐき也。あんなふんいきになれてしまつては庄野君も文學者としては駄目なり。」という斬り捨てるような一文があって驚かされる。「あゆ」とは「阿諛」であり「ついしよう」とは、「追従」のことだろう。つまり、この送別会の本当の印象は、作者にとって決していい感じのものとは言えなかった。詩は、当然のことのように、そういう印象とは別次元で美化されてつくられている。
 ところで、もうひとつ興味をひくことがある。それは、二十六日の日記に書かれている「うたげ」が、上記の作品と微妙に異なるところだ。作者は、二十日に詩の最終稿(再稿=上記の作品)を出版社に送っていた。すると、日記にかきつけられたのは、その後、更に推敲をほどこされた形のように思える(決定稿以前の古い草稿を改めて日記に書き写すことは考えにくい)。訂正されている個所はごく僅かで、初連の五、六行目のの「ゆたけくもはや/われら酔ひにけり」が「はやもゆたかに/われらゑひにけり」に、次の行の「座にありし老叟(をぢ)のひとりの」が「座にあるひとりの老叟(をぢ)」に、という意味的にはあまり変わらない改変だが、他に一個所、三連目の「わが友も自(みづか)ら手打(う)ち」が、「わが友の目見(まみ=眉)はぢらひて」に、かえられているのが目をひく。この改変によって、「わが友」が老人の言葉に、即座に手を打って、そうおっしゃるなら私も応えてこういう「古いうた」をよみましょう、と身をのりだして歌い始めたという感じが消えて、「わが友」は老人の言葉にちょっと照れて恥ずかしそうにしてから、「古いうた」を歌い始めた、というニュアンスになる。たしかに作品としては、このほうが「我が友」の初々しく控えめな青年らしさがでて「場」に深みを与えていると思うが、いずれにせよ作者にとって作品とは、現実の思いをそのままうつすものでなく、絵画のように絵の具を重ねて「美」をつくりあげていくものだった、ということの具体例のように思えるのだった。




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