第三十八回目 友部正人の「酔っぱらい」
酔っぱらい
友部正人
舗道では首のない小鳥たちが
我れ先にと騒ぎたててる
やくざなサングラスのずっと奥には
ちぢれた目玉
流れのまん中に仁王立ち
唄い出しても人気(ひとけ)は減るばかり
もうこれでおしまいにしようと思って
酔っぱらってみたのです
言いふらしたくはないものだよ
あの娘のことなんて
できるだけ関係なしにしようと思って
遠くばかり眺めてた
でも君が欲しくなったものだから
胃袋の中は油汗がいっぱい
もうこれでおしまいにしようと思って
酔っぱらってみたのです
君が手にもつ針の先で
僕は息をひそめてる
オートバイが夜を駆け抜けて行く
顔中にふく面をして
息を切らしてざまあみろって言うけど
夜の風は淋しいばかり
もうこれでおしまいにしようと思って
酔っぱらってみたのです
町にはえてる電信柱も
夜には背伸びする
良くも悪くもならないようにと
誰もが自由を売り歩く
信号機に小便をひっかけながら
僕は君のことばかり
もうこれでおしまいにしようと思って
酔っぱらってみたのです
こんな気分じゃとてもじゃないが
うまくいくはずがないよ
でもいつかはきっと君の胸の中で
一晩中騒ぎたてていようと
水になった君の体の中で
疲れ果てて眠ってしまう
もうこれでおしまいにしようと思って
酔っぱらってみたのです
友部正人詩集『おっとせいは中央線に乗って』〔思潮社)より
○街頭でサングラスをかけた男がフォークソングかなにかを歌い、夜になると暴走族のオートバイが走り抜けていくような町。そんな町の一杯飲み屋で「僕」はしたたかに酔っぱらって「君」のことを考えている。街頭のフォークソングも暴走族のオートバイも夜の町をいろどる若者の風俗でしかないけれど、同じ若者である「僕」の視線や関心はどうしてもそちらに向いてしまう。そこでなにかが起こっていて、でもそのなにかには町の中にうまくとけ込むような位置をあたえることができない。この位置があたえられない場所は、それを横目でみながらこうして酔っぱらっている「僕」のいる場所と同じなのだ。なにをおしまいにしようというのか、自分のこれまでの生き方なのか、泥酔するまで存分に酔いつぶれることなのか、「君」に対する未練の感情なのか、よくわからないけれど僕がもういいかげんああ「おしまいにしたい」という思いで飲みはじめたことだけは確かなのだった。シンガーソングライターという言葉がいまでも良く使われているのかどうか知らないが、著者はそういう人で、72年にデビューアルバム「大阪にやってきた」をだした。そのアルバムにこの詩を歌詞にした同名曲が収録されている。また、詩集『おっとせいは中央線に乗って』は、77年に出版されているので、最初和製フォークソング(といっていいのだろうか)の曲の歌詞として書かれた詩を、後にこの詩集に収録したということだと思う。著者の初期のレコードはCDに録音したものを何本か持っていて、今でも年に一度くらいは酔っぱらったときに聴く。
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