第三十四回目 福永武彦の「饗宴」
饗宴
福永武彦
花は地に終(つひ)の美を夢みる夜
光に翔けて行く翼のむれ
時 黒檀の部屋に燃えくづれ
影を移すかがやきのVENVS(ウェヌス)よ
われを焚(や)くいのちのふるさと おお
われに笑む遠い記憶よ眠れ
空の露 忘却の銀に濡れ
北河 天狼 五車 夜の女王
ここにともしびの孤獨の宴(うたげ)
錬金の暗い調べをささげ
たち迷ふ憤怒の霊をくだす
吹く笛のたくみに物はふるへ
夕波にうかぶ萼(うてな)のゆくへ
天の乙女にさかづきを差す
「夜」より
『福永武彦詩集』〔麥書房)所収
○典雅というか、幽玄境というか、いまにも散らんばかりの重たげな花や、燃え崩れてゆらめく炎、遠くさざめく星々や、たえなる笛の音、盃のような花の萼を浮かべてたゆたう夕波など、優美なイメージがちりばめられた詩だ。笛の音や、立ち迷う「憤怒の霊をくだす」というところから、屋外で篝火をたいて演じられている修羅ものの薪能のようなイメージもすっと浮かぶ。花の萼が夕波にたゆたっているという、この季節はいつなのだろうと少し考える。北河(ほっか)は双子座、天狼はおおいぬ座のシリウス、五車はぎょしゃ座をさす中国移入の呼び名だが、いずれも冬の星で、夜の女王は、西欧でいう「夏の夜の女王」のことだとしたら、こと座のベガ(織り姫星)のことになる。しかし、そうするとこの星だけが夏の星だ。最終行の「天の乙女」がこの星をさすとしたら、季節は夏、他の星々は記憶の中をめぐっているという解釈になるだろうか。ところで、この詩は昭和18年にソネット形式の「定型押韻詩」として書かれている。前年に結成された、いわゆる「マチネ・ポエティク」の詩人グループの典型的な作例のひとつといっていいと思うので、脚韻にも注意して読んでみたいところだ。詩は望むひとが望むように書けばいいと思うが、戦後の「マチネ・ポエティク」の運動に対する評価は、作者になんとも無念きわまる思いをもたらしたようだ。この『福永武彦詩集』の「付録に添えて」で、作者がそうした事情に触れている個所を以下に引用しておきます(以下の文中の「「夜」の七編」の中に詩「饗宴」も含まれています)。
「、、、定型押韻詩は日本語に於ける一種の実験として呈出されたので、決して自由詩を否定したものではなかった。我々はこのように韻を(脚韻に限らず頭韻なども)重視することによって、詩に音楽性を付与できるものと信じたのである。しかし戦後の詩壇で、この実験はイメージ尊重主義者たちの反感を買ひ、形骸のみあって実質を伴はないものと罵倒された。果してそうであろうか。「夜」の七編、及びそれと近親関係にある四編は、私にとって実験であると同時に作品であって、謂はば私の詩的生命が懸つてゐた。私は詩壇の狭量なのに呆れて詩を書くことを廃してしまった。」 『福永武彦詩集』「付録に添えて」より
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