第十二回目 会田綱雄の「お秋さん」


お秋さん

                   会田綱雄


     幽霊に呑ませてくれるという神妙なバーが新宿にある
              お秋さんがやっている小さな店だ
                          ただし
                 呑ませてくれるといっても
               幽霊にアルコールは禁物らしい
              炭酸を一本コップにあけてもらい
                   ちびちびと舐めていて
        お秋さんとは目をあわせないようにしているが
         なんとなく困ったときの幽霊の目のやりばは
                    きまっているらしい
        うすよごれた壁にかけてあるピカソのデッサン
                        無論複製だ
                男が女のなかにはいっている
                     というべきなのか
                あるいは女が男をいれている
                     というべきなのか
                         男も女も
                  あっけらかんとしたまま
              すがすがしい天使の目をしている
                          しかし
                  肉体の線を辿っていけば
                  明確に野獣は生きていて
               ピカソは描いていないけれども
                   おかしくはないだろう
                いつも幽霊が考えているのは
                  そんなことかもしれない
               お秋さんは<ワレ関セズエン>
          じぶんの指をぴいんと伸ばして眺めている
                          白魚の
                   といってやりりたいが
                いささかはヒビも切れている
                          働いて
                          働いて
              とにかく生きてきた指なのだから
                   お秋さんにしてみれば
       いまでも十本そろっているだけでもうれしいのだ
                  ところで幽霊は勘がいい
        たとえばアイダツナオのごときボクネンジンが
                  ドアをおしあけるまえに
                     それこそ音もなく
                    すうっと消えさって
        カウンターには炭酸のコップだけが残っている
                   「幽さん来ていた?」
                         「ウン」
ボクネンジンは手を伸ばしてお秋さんの十本の指を握ってみるが
 それが氷のように冷たいので放したくても放せなくなっている
   「あなたに握ってもらっているのに血の気がさしてこない
                       「なぜだ?」
                       「わたしもネ
                 幽霊になってきたらしいの
                           さあ
                        手をお放し
               お眼鏡をかけたニンジンさん」

           会田綱雄詩集『遺言』(青土社)より


○この詩も随分味わいのある作品。店で炭酸水を呑んでいく幽霊の客というのがおかしいし、この「幽さん」の存在感のなさそうなふるまいもおかしい。「幽さん」は、本当はそういう存在感のない実在の常連客のニックネームかもしれないと思う。お秋さんが作者「アイダツナオ」のことを「ニンジンさん」と呼んでいるところからも、そんな空想がうまれてくる。全編に「なじみの酒場」風景というもののかもしだす親しげな雰囲気が満ちている。薄汚れた壁に掛かっているピカソのエロチックな絵の観察描写や、なんども目にしているお秋さんの指への思いやり。来店そうそう、さっと手を握って、手がつめたいので「放したくても放せない」なんて言っている顔なじみの客に、さあ、そろそろ放してよ、とさっと嫌みなくきりあげる、お秋さんのふるまいのくだりは、実際にあったことのようにリアルで、作品もぴったりきめている感じだ。





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