第三章 黒い瞳のピアニスト
長編詩、古い舗道の叙事詩−交響曲の夜− 目次前頁(第二章 交響曲の当日―ホテルから病院へ―) 次頁(第四章 交響曲の夜)
冨澤守治ホームページShimirin's HomePageUrokocitySiteMap

第三章 黒い瞳のピアニスト



母の実家の前の舗道沿いには水路が在った
家族が去った後、対岸の病院跡には公会堂が建っていた

ピアニストは楽屋の窓の外の廃屋を少しの間、見つめていた
しばらくして彼女の黒い瞳は視線をそらし、楽屋のアップライトの
ピアノで音符を確かめて行く
明るい春の日、メロディーは次第に軽やかになり、渦巻く想念と
恋い色の撹乱を整理しては、その後には舞台のメイクに使った化粧
品の香りを散らして行く

大地が伝える音楽に酔い、舗道は別のことを想い出した
雨の止む瞬間に、空が突如広がり、人生が始まることを
かくも哲学的な「止むこと」は彼の記憶に彼らしく残り
果樹が熟して秋の祭が始まるように、陽気に高まり
舗道は息子に嫁を迎える父のような気持ちになっていた

彼女は細身の二十七の女性、音楽に捧げた青春のせいか
会ってもろくに喋りもしないのに、思わせ振りをする
この半年、僕のなかで起こる何かが辛さとなり
男性の押さえ切れないものだけをいつも残した
彼女は拒絶もしないままに、心根は黙って分からない

気が付ついていない男は多いけど、男の父や夫になる部分
男の胸には大きな井戸が在って、底無しで
その真実の穴へと、中に胸からこぼれる海水が流れ込む
僕の満たされない思いがどんなに深くても
答えがないと、海流が少し流れれば、すぐに溢れ出して
いつも流れる先は同じ沈黙の心、やり切れないままに
彼女の黒い瞳で愛の光景に変わり、不思議な空腹になる



この春の日、彼女が見つめる廃屋と舗道、彼女は恋人から聞いた
その歴史とストーリーを、僕も知らなかったほど深く
理解していた、いつに無くメロディーは高まり
経験豊富な古い舗道を喜ばせる音楽の域に達した



間奏、古い教訓

永く近寄り難かった思い出と、黒い瞳に曳かれたまま
いまや僕はあの舗道に足を踏み入れた

その舗道は何年も前の吸い殻を抱き
子供が遊んだ舗道は大人には小さくなり
割れたコンクリートからは雑草が生え出していた
過ぎた想いが多年草の茂みによどむ
舗道は草の力に支えられ、いまも息づいていた
しかし小川は水害に備えて水位は低くされ
どぶ川のように水を溜めては泡を浮かべていた

頬に受ける夕陽よ
舗道はいま仮面を剥いだ、それは父の幻影
早く逝った父の墓碑銘と重なる

この廃墟の光景は教えてくれる
眠りのうちにも時は過ぎて行くのだから
僕たちの歴史よりも早く、時は古くなる
この時の流れに反逆して
燃える心の琴糸が燃え尽きようとしないなら
ひとの記憶は戻ることができる

忘れていた、父のこと、子供のころ僕は父と争い
怖い夜道を祖父の家に行ったことがある
父の男性が子供を奮い立たせて
夜道を歩かせたときと同じに、そして
父の煙草が燃えるように、火のついた紙の色で
この日は夕空がある種の緊張に満ちていた

子供に、母親の気持ちは分かっても
父親の考えが難し過ぎたこともあった
父が悪知恵を与えるかのように
古い舗道の叙事詩はそこに響いていたのだ


長編詩、古い舗道の叙事詩−交響曲の夜− 目次 前頁(第二章 交響曲の当日―ホテルから病院へ―)次頁 (第四章 交響曲の夜)

冨澤守治ホームページShimirin's HomePageUrokocitySiteMap