プロフィールのような
ルーツは尾道にあり

母が教師をしていた、ということが関係しているのかどうかはわからないが、幼い頃から文章を書くのが好きだった。
尾道市には小学校では<港>中学校では<虹>という文集があり、記憶の中では、いつも載せてもらっていたような気がしている。とりわけ、中学一年の時には、ある作文コンクールにおいて、県下で賞をもらい、さらに中央である東京で賞をもらい、華々しく校内で表彰された記憶もある。
その頃の私は、随分無口な少女だった。母が何倍も喋る人だったので、私は大体、黙っていればよかった。たまに喋ると喋り慣れない私は、なんかドジを言ってしまう。そうすると、何となく注意され、いよいよ黙ってしまう、というふうであった。そのぶん、口で表現できないものが、文章として吹き出ていたのかもしれない。
今思えば、高校の時、何故 文芸部に入らなかったのかと悔やまれてしょうがないが、同じ高校でふたつ違いの姉は文芸部の部長をしていた。<槇ヶ峰>という文芸誌だった。高三の時には姉は、私が今、詩壇賞をもらっている同じ新聞に、詩が掲載されたこともある。つまり姉は、中国新聞掲載においては、私の先輩、ということになるのである。
その後悔をとりもどすべく、私は大学に入学すると、すぐに文芸部の門を叩いた。詩を書き始めたのはこの頃からだった。それまでの私は、結構、長めの文章を書いてきた。大学の頃には何でも書いた。小説のようなもの、随筆、小品、詩、そして短歌までも。<澪標>という文芸誌だった。その上、姉が経験した文芸部長にもなった。しかし、ただ楽しんでいるだけで、それを外部に向けて発信するなどということは、考えることさえなかった。アドバイスをくれるひともいなかったし。
社会人になっても、中央公論社に感想文を応募し入選したこともある。ドナルド・キーンさんと面識もある。(ささやかな自慢)そして、就職した日本鋼管(今は川崎製鉄と合併してJFEスチールという名前)は大企業だったので文化系、運動系、いろんなサークルがあった。勿論、文芸部もあり、私はそこで詩や小説のようなものを載せていた。制限がなくて書いただけ全部載せてくれる、というのはさすが大企業である。ここでの文芸誌は<若あゆ>と言った。福山や東京の社内報にも、よくエッセイを載せてもらった。稿料がハンカチセットで、私はこれをいくつももらっていた。社員から時に電話がかかってきたりして、その反応が嬉しかった。コーラス部にも入っていた。
そのあと私は、<あかしあ><鵬程><ふくやま文学><輪><広島県詩集><中四国詩集><陽><詩脈><mini・fumi><蔕文庫>へと続いていく。
2004年8月末、福島の歴程の合宿に参加し、<歴程2004・8号、癸毅隠粥笋烹宜垰躓擇嗜句を載せてもらった事は、私の中では画期的なとても喜ばしいことだった。
広島県詩人協会の現会長、高垣憲正さんは、私が中学時代国語をおそわった恩師である。<虹>の編集にも携わっておられた。
要するに、「ルーツは尾道にあり」なのだ。
文学の修業は、現在進行形で続いてゆく。(^^


(2004・3・1、陽 第87号、一部改訂)


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