■Kitami通信 No.6 3月27日
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ラクダとヒツジの子宮
私はヒツジの子宮に小ビンを押し込み隠して、荒野をさまよう牧童になったユメを見ました。
私は月光に浮かび上がる砂漠でヒツジの群れを追う牧童になっていた。砂丘の向こうの街が黒い影になって炎につつまれている。ヒツジはどれも痩せて腹がへこんでいたが、よく見ると、何頭かのヒツジの腹はふくらんでいる。
諜報員の、「フセインの居場所確認!」の一報で先制攻撃にうってでたアメリカ。国連や同盟国との一連の緊迫した経過は兵員、物資の配備と世論操作、何より、諜報活動の結果を待つ時間かせぎでしかなかったのかと、むなしい。
諜報員の一言が、すべてに超越してしまうアメリカの思考停止の体制をどう考えたらよいのか。
野球だって九回までやる。初回のホームランの一点で、試合が決まってしまうことは少ない。フセイン暗殺をイラクとの戦争の重要ポイントとしたアメリカの戦略に、場当たり性、協調を欠いたワンマン性、自己過信、要するに戦争全体への見通しの浅さを嗅ぎとってしまう。
アメリカの猛爆だ。フセインは自国の諸宗派、諸民族との協調も出来ず、弾圧の限りを尽してきたのに、ここにきて「イスラムの大義」とかいうのは、泣き言にもならない。独裁者を排除できなかった国民の不幸。優越民族として優遇されてきたツケ。しかし自業自得というにしてはあまりにも激しい爆撃。アメリカはイラク市民の命を虫くらいにしか思っていないのだろう。
小型少量物質としてある物理、化学、生物兵器は、それがもしイラクにあったとして、この戦争でかえって拡散したのではないでしょうか。
一週間ほどラジオのニュースを聞きながら、上記のようなことを思っていて、私は砂漠の牧童になったユメを見たのです。
痩せたヒツジばかりの中に、何頭かの腹のふくらんだヒツジのまざっているのが気になって仕方がない。そういえば兄をまじえた大人たちが、ラクダの尻に何かを押し込んでいるところを覗き見た。子宮に何か大事なものを押し込んで隠したらしい。私のヒツジにも何かを入れたのだろうか。それともただ子どもを宿しているだけなのだろうか。兄たちは中学生くらいの私を草の少ない荒地においたまま、国境を越えて消えてしまった。
フセインと彼の科学兵器の除去を目的に戦争を仕掛けたけれど、工学兵器とちがって探しにくいのではないでしょうか。だいいち科学兵器は場所を変え、少数の実行者で新たに作られてしまう事だって簡単だとききます。査察では「間に合わない」と言いながら、戦争にうったえても時間はかかり、探すのはやはり査察的行為だと思いますが。
兄たちはラクダの子宮に重要物質を隠して越境しましたが、ラクダのお腹の中ではもっと大きな憎しみという危険物質もふくらんでいるようで、私の痩せた方のヒツジのお腹の中でも、何か得体のしれないものがふくらんでくるように思いながら、こわくなってユメからさめた私です。
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