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純白の画面上に錯綜する黒や赤の線。
垂直線、水平の線、曲線、ときに斜線。あるいは大小の点。だがそれらは無定形でなく、まず背景として、縦横に走る破線の格子状構造をつくる。これがいわば基礎的枠組みとなり、舞台背景をなす。多くの抽象画家たちが幾何学図形を描いたのは偶然ではあるまい。それらは心的構造の絵姿なのだろう。ただしここでは、切れ切れの線の破片が連なって画面全体の運動を統御する。
後景となるこの枠組みに絡めとられながら、全景に姿を現わすのは、種々の特異な断片的心像だ。ドジョウ犬、猿の頭部や手足、独楽、ヒトの足と手、人差し指、魚、ドクロ、そして浮遊する目玉状球体。これら部分的身体像は、破線の記憶格子の表層をうごめき、隠微な私的メッセージを包んで、聞きとりにくい淫らなざわめきを発する。
だがこれら部分心像群にはもはや中心はない。かつては、(中央部が空白となった)三菱の「破片」の象徴図が画面の中央を占めていたのだが。いまはもうそうした空虚な中心さえ消え去った。だから、独楽は回転しない/人差し指はもはや何も指し示さない/浮遊物体となった目玉は何物をも見ておらず、視線を投げることはない/ドクロはたんなる輪郭線にすぎない。ここにあるのは事物に輪郭を与え、同一性を付与し、その独自の特徴のみを抽出する「線」そのものなのである。
錯綜するこれら追憶像の群のなかで、ゆるやかに旋回しながら上に向かう螺旋階段様の直線の破片がある。密かにゆらめき昇り、またときには下降する数本の曲線がある。
沈黙せる線が、地を這い壁を上る蔦のように、空白の画面に吊り懸けられた破れ格子の構造線と入り混じりつつ、ゆったりと伸びる。タブローの上下左右を越境し、側面を経てさらには裏面にまでも伸びてゆく。二次元的な線がタブローの全表層を制圧してタブローそのものを三次元化する。
こうして記憶表層に留まる身体像の断片は、空白のタブロー上を這う線にまで己を解体し、ひからびた硬質の線となり、人間的時間の速度を失ってほとんど不動状態に近づきながらも、しかし透明でゆるやかな別の生命速度を維持する。追憶を凝縮したこれらの線は、職人の指先でつくりあげられる針金細工のように、硬直し乾いた苦しみをたたえつつ、その動き自体によって柔らかなイメージ群を生成させる。(榎本 譲)
【1990年個展案内状より】
榎本 譲/論文:「ラカンの精神病論にかんする一考察」ほか 訳書:J-D.ナシオ「精神分析7つのキーワード--フロイトからラカンへ」新曜社 M.マリーニ「ラカン―思想・生涯・作品」新曜社・F.ドルト「無意識的身体像1.2.」言叢社 D.アンジュー「集団と無意識」言叢社ほか
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