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日録、風のなかで話しましょう


2004年9月

2004/9/28(tue)
下の訳詩、

「かつて若かりし頃、わが舌に時雨れるがごとく、人生の味は甘かった。」ではないかという、ご意見もあると思います。
 
これは歌詞であって、メロディーにはフレーズ毎に相応した歌詞の意味を与える必要があります。一方このフレーズに続く、「私は人生と戯れた、あたかもそれが馬鹿げた遊びであるかのように、」以下の歌詞は、関係代名詞が省略されている形で「人生の味は甘く」に係っていくと私は見ています。それゆえ語の順序は
 
「かつて若かりし頃、人生の味は甘く、
 わが舌に時雨れるがごとく。」なのです。
 
これは訳詩の限界で、実際のテレビ画像などでは、1フレーズ毎にテロップを流すようにすれば解消される問題であると思います。むしろ日本語そのものから創作するとすれば、
 
 かつて若かりし頃
 日々の味は甘く、口を漱ぐにも多く
 人生と戯れ、私は遊び呆けていた
 夜、渡る風が灯し火を揺らめかすのようにして
 
と、即興で(私が)詩にすることもできます。しかしこれは正確には翻案であって、翻訳ではありません。
 
また最後のフレーズも日本語的には長ったらしく感じますが、文法的・構文的に前に係る英語を話すひとの意識では不自然ではないのです。それゆえ日本語である私の翻案は、一連の文章の主文(「私」と動詞を含む)を3行目に持ってこざるを得ないのです。
 
そのほか「意味的に」最後のフレーズは、このあとの2番目の歌詞、
 
 数多の夢を夢見て、とてつもないことを企てた
 しかし私はいつも緩く、移ろい易い砂のうえに
 その夢を打ち立てていたのだ・・・
 
にも係っていくと思います。

2004/9/27(mon)
Yesterday When I was Young、帰り来ぬ青春

昨日は文法の比較でがんじがらめになり、下の歌詞にはもう少し日本語的な翻訳をしておくべきでしょう。ただしあくまで下記の内容と英語・日本語の差異を踏まえてのことです。私の非力さは十分承知のうえではあるのですが、特に詩の翻訳というものは、多分に妥協の産物でもあるのです。
 
 
 かつて若かりし頃、人生の味は甘く、
 わが舌に時雨れるがごとく。
 私は人生と戯れた、あたかもそれが
 馬鹿げた遊びであるかのように、そして
 ちょうどそれは、過ぎ行く夕べの風が、
 蝋燭の炎を揺らめかすかのようであった 
 

この曲、訳は難しいが良い歌詞です。しかし全訳は著作権の関係上はできないでしょう。これはあくまで文法論的な比較の例として訳しました。

2004/9/26(sun)
 詩の翻訳と音楽性fは 

別に九鬼周造以来言われている、日本語の場合の脚韻が動詞の活用形になり、平凡な繰り返しになるということだけではない。言語学で言われるように、印欧語族の基本的な語形は子音が母音を挟む形で、各言語や方言においてはより母音の変化が多いように思う。一方でウラル・アルタィックに属する日本語では母音の明瞭化に関心が払われ、方言でも相違点は「いし、石」を「ひし」と言うごとくである。いわゆる「母音調和」である。単純に訳すと、いくつかの強調する言葉に共通する母音と子音を探し、日本語に合うよう単語を探さないといけない。逆に頭韻・行分けを駆使して、日本語の詩の言葉に音楽性を見出すこともできるだろう。
 
一方印欧語の場合、母音を変更して子音の枠組みを残す言語の「膠着性」を通じて、分詞形など用言の名詞化が容易で(例、「お前は怠けて働く。」⇒「お前の働きは怠けだ。」)、哲学では日常語がそのまま概念的な言葉になり、西洋思想そのものの特徴にもなっている。ところが日本語にすると変なことにもなるし、ただでさえ難しい哲学をさらに難解なものにしている。
 
シャルル・アズナブールの原詩を英語に翻案した「Yesterday When I was Young、帰り来ぬ青春」の冒頭は翻訳するとき、よく省略される。
 
 Yesterday when I was young
 The taste of life was sweet
 Like a rain upon my tongue
 I teased a life as if
 It were a foolish game
 The way of evening breeze
 May tease a candle flame
 
問題は最初のrainで名詞として直訳すると、「かつて若かりし頃、人生の味は甘く、わが舌の上の雨のごとくであった。」になる。正しくはrainが動詞的である点であろう。「降雨」・「(雨が)振る」の意味がある。従って若干の意訳を含んで訳すと、
 
 かつて若かりし頃、人生の味は甘く
 わが舌に時雨れるがごとし
 
 私は人生を揺さぶった、あたかもそれが
 馬鹿げた遊びであるかのように
 
 ちょうどそれは宵の風が吹き行き
 蝋燭の炎を揺らめかすかのようにして
 
となる。(試論、私論にとどめる。)

訂正、

題名「詩の翻訳と音楽性は」、「f」は無用。
 
一段目、「単純に訳すと【変になるので】、いくつかの強調する言葉に共通する・・・」


 
二段目、「一方印欧語の場合、母音を変更して子音の枠組みを残す言語の「【×膠着性⇒○屈折性】」を通じて、

 詩の翻訳と音楽性(続)

The way of evening breeze以下は「宵の風が、蝋燭の炎を揺らめかすかのように」としたいところだが、breeze自体が動詞としての意味があり、of a breezeは風が吹いている状況も表す。日本語文法でいう、動詞・形容詞的な「用言」的な構造が響いているとも言える。従って「ちょうどそれは宵の風が吹き行き/蝋燭の炎を揺らめかすかのようにして」と長たらしく翻訳になった。
 
ちょうど漢詩の訓読のようになる。その場合古代中国語のリズムは本来失われている。これは古英語とフランス語が融合して、現代英語ができる過程では屈折語が中国語のように孤立語化したこととも関係している。私の知るドイツ語では多様な副詞や格変化によって「長たらしい」言葉使いになる。しかし英語ほどはっきりとはしないが、説明的な言葉の補充と意訳が不可欠になる。しかしそれも音楽性をそぐ原因になっている。

 
注記、teaseは通常は「からかう」・「いじめる」であるが、うえの訳詩の場合現代英語、特に米国英語では「せがむ」・「ねだる」の意味もある。下の行に「蝋燭の炎」を「からかう」という比喩的な用法があり、古典英語の「離れさせる」動作的な意味を容れて、「揺さぶる」・「揺らめかすか」と訳した。日本語と英語の単語は辞書的な対応関係にあるのではない。もし「からかう」としたら、日本語にとっては必要以上の雅語的表現になるであろう。

2004/9/23(thu)
 今日も真夏日の予報 

まだ暑いので、バテーー、としています。
元気がないので、涼しくなるまで、当分このまま。
掲示板をよろしく。
 
(変なこと書くひとは、いや。
(ストーカーも、いや。上の注意書き、読む。

2004/9/13(mon)
 暑いはず 

9月になって、例年なら残暑が厳しく堪えるはずなのに、夏の日和も途切れ途切れ、風がふと涼しく感じる。しかしこうしてパソコンを打ち込んでいると、極端に暑く、汗が噴き出してくる。どうしてだろう?
 
それと昨日夜遅くに帰宅後、室内に風を入れて、食事をしているときは汗をかかないが、あと始末をした後は汗がびっしょり。変ですね?
 
それで気象庁のデータを調べたり、一日の温度差を調べていると、解った。
まだ暑いのだ!
 
要するに、今年は7月の始め、空梅雨のまま猛暑に突入、すでに2ヵ月半も真夏の熱い熱い太陽に身を焼かれている。ちょうど熱帯の赤道直下に海外赴任して帰ってきたようなもので、身体が夏に順応したまま、少し涼しい(暑い)9月の空気を少しだけ涼しく感じているだけなのだ!
 
何だろ、これ。「何ですか、それ?」むかしサイに喋らせていた自分の詩の言葉がまざまざと浮かぶ。

2004/9/12(sun)
 建設的な話として 

いま反省すべきことは、素人が玄人の仕事に口出しをしていることが観察される。どこの会社も営業出身者がリーダーになったり、かなり専門的なメーカーの会社のトップがまったく無関係の分野からヘッドハンティングされたり、天下りしたりしている。また旧財閥系の企業グループ内では血縁でなくても、番頭閥でなくても何らかの閥族のメンバーが、まったく違う分野で顔を出したりしている。
 
どうしてこのようなことが可能であるのか、それは素人が学歴や地位、縁故をもって介在してくるからであろう。もっと現場の人間が企業・団体の指導層に配されるべきではないかと思う。ここ数日指摘したことを見ると、これは行政・政治の場にあっても言えそうである。
 
この場合現実との意識のすり合わせが出来ずに、失敗しているのではないかと思うケースがあるようにも思える。経営・管理というものを等質的なものと見て、企業・団体の活動を金の数値的な点からのみ判断する傾向が強すぎないだろうか。これは株取引、銀行側に適した観測の形式であって、或いは企業を渡り歩くヘッドには有利な発想である。社会全体の福利、株式会社の持つ公共性とは相容れないのではないだろうか。
 
最近窓口業務で何度も、未熟練なミスに遭遇した。殆どがパート・アルバイトであり、マクドナルドは典型的な例として挙げられているが、対応のマニュアル化もできる仕事とできない仕事があろう。またどの仕事も部分においてはかなり専門的かも知れない。上の社会活動が素人的に、等質的に数量化されている現実は、やはり異形のものに私には思える。(保険改悪においても「離職者いくら」と計算したかも知れない。本当は損害保険とは、まともに仕事ができるのに10年、一生かかって熟練するほどの代物なのだ。)
 
転職などにおいても、中高年が以前と同じプライドを持って仕事できるよう、職業訓練が言われる。明確な間違いであって、中高年は適応力がないのだ。またできたとしても、精神的に望ましくはない。一生、一仕事などとは言わないが、せめて関連部門へのスムーズな移動ができるよう、社会全体でコントロールする必要があろう。
 
また政治も各職業の適正な量的コントロールをする手法と関心を持たないといけない。建設・土木、私たちのように金融サービス・ノンバンク、都市部の医科歯科業などのように−間違いなくまだいくらもある。−、飽和した状態を放置するようであってはならないのである。「自由化、自由化」と言っていた時代でさえも、すでに遠い。自由放任などももう時代遅れなのだ。


 
上の中高年の話にしても、いままでの蓄積を捨ててしまい、改めて職業レベルに達する教育を受けるなど、社会全体ではどれほどか非効率であろうか。そして脱落・失敗の危険性もあるのだ。


 
訂正
 
「この場合現実との意識のすり合わせが出来ずに、
・・・」以下の段落中 ⇒
「企業・団体の活動を金【額】の数値的な点からのみ判断する傾向が・・・」


 
灰皿町サーバーが交代にともなうテストの書き込み、兼訂正2。3段目の冒頭、

「この場合現実との意識のすり合わせが出来ずに、失敗しているのではないかと思うケースがあるようにも思える。」⇒
「この場合現実との意識のすり合わせも出来ずに失敗してはいないだろうか。」
 
*忙しい合間を縫って書き流しながら、ポストする習慣があって、あとから見直すと不完全です。出版物でもないので、大意を読んでいただきたく存じます。

2004/9/11(sat)
 これを書くのは、 

下の書き込みの12時間後です。本日郵政民営化案、閣議決定して、いまニュース・ショーに審議委員の人が出演して話をしていたが、やはりかなりのサービス低下は避けられないようだ。そして彼の挙げる公営としての郵便局の不都合のすべてが、政治の上部構造によって、つまり政治のしっかりしたコントロールによって避けられる話なのだ。
 
また保険の話に関してだけは私ははっきり言えるのだが、専門家では全くないようで、色んな商品が出るからいいんだ式の理屈、販売しやすく、統計上でのみ安全なひとを相手に「商売」してしまう危険には無頓着のようだ。結果は事実上病歴のある人は入れない保険になるだろう。
 
要するにそれほどしっかりしたプログラムのうえにできた案ではないのだ。反対派を批判している小泉氏も無邪気であろう。あの言い振りは国会議員よりも反対する国民すべてを批判するニュアンスが考えられる。私は是々非々の立場で、党派的見解からは無縁な人間であって、(自分が属する損害保険の過酷な状況には相当頭にきている。しかしこれは私には例外的なことなのだ。)むやみに小泉氏だけを批判する人間ではないが、総理大臣の発言としては少しく無礼に聞こえた。
 
ため息ばかりをついていてもしようがないが、かくして無党派の典型をもって任じている私にしても、この間(カン)小泉氏に選挙で投票したひとが、数年後に郵便局が不便になって或いは存在しなくなって、そのことを嘆いているであろう姿を思い浮かべ、釈然としないものを感じる。
 
同じことだが、いまになって、若い息子が免許を取ったと聞いて、保険屋である私が年齢条件の変更を契約者の父親や母親に申し出ても、あまりの高額な保険料の追徴に「なぜ、こんなだ!」と怒鳴られる。高齢のひとの傷害保険の補償額は制限されるか、事故の多い人の契約は謝絶される。生命保険系列の損保では、21歳以下の自動車保険は断るものが多い。また通販損保では若年者はもとより、高齢者(たとえば45歳以上とか)の契約も高い保険料になる。それで私が6年ほど前の日米保険協議とその後の政府の対応を説明しても、「そんなもの、報道されとったのか!」という、もう耳にたこができるほど決まり切った罵声が返ってくる。
 
(結果はほとんどの息子氏・息女氏が、そのままの年齢条件で車を運転している。保険屋の知らない無保険車である。そのために自衛のために、自分の自動車保険から補償してもらうシステムの人身傷害付きの保険に入らないといけない。弁護士費用特約も要る。なおかつ自動車を持っていないひとは、この被害対策ができない。保険をつけないまま、いつまでも若い人はその後も自動車保険に入らない。すでにこの改悪が始まって5年以上が経つ。昔ならそういう人を説得する保険代理店も、もうすぐ消える。)
 
日本の政治は、どうしてこうも空しいものなのだろうか?目の前に危険が迫るまでは安全なのだろうか。社会現象としては確かにそうかも知れない。損保の愚かしさは郵政においても繰り返されそうだ。今回も郵政の民営化案をアメリカが評価している。アメリカは社会保障が金融資本の餌食になった、世界でも有数の社会保障の後進国である。そして一度崩れれば、社会保障のシステムは永久に崩れ続けるものなのだ。


 念のため 

夜半に書くために、よくこういうことが起きます。上の「本日郵政民営化案、閣議決定して、・・・」は、9月10日の出来事です。

2004/9/10(fri)
 郵政民営化の話(続き) 

思っていたとおり大きな政治問題になっている。一般の国民の間でも、身近な存在だけに私たち損害保険業界の混迷以上に関心が高まっている。
 
具体的な事例としては、詩集を出している人には郵便振替の手数料の問題がある。極めて安価ではあるが、これも国の組織である郵便局がしているから、ほかの金融機関が黙っているのであって、おそらくは銀行の文書扱いのようになり、或いはメッセージの伝達の機能はなくなるであろう。別途の通信が必要になる。弱小の出版社などは痛手になるはずだ。
 
もう昨夜になるが、テレビを見ていると、それぞれの立場のひとが私がここ数日来述べたのと同じ論法で微妙に文脈の異なることを言っていた。異口同音というのであろうか、なかにはこの日録を見ているのではないかと思うほど、同じ言葉を使っている政治家・役職のひともいた。
 
小泉氏のやりかたは締め付け、「踏み絵論」とも云われる。私などのようにアメリカ資本の影響とか、ないしはアメリカ大統領選の如何では政府間レベルで大きな方針の転換もあるから、その連関だとか、鵜の目鷹の目で勘ぐっているものもいる。なぜ急ぐのか、性も無い我意だけはご免こうむりたい。
 
一番政治的に考えられるまともな理由は、例えば石油価格の上昇は経済構造の世界的な変革の前にはいつも前置して起きる、つまり中国などの最近工業化した国々が次の段階に移行しつつあり、さらに中近東の安定により投資が活発化しそうである、つまり日本が国際的地位を残すにはまたぞろ投資が必要になる、世界の経済もより大きくブロック化するだろう、これらの状況に備えて郵便事業を切り売りし、かつその資本の中枢を握ることによって民業を犠牲にしてでも、政府の経済的な基盤作りを画策しているのかも知れない。(とても内閣府だけで考えたとは思えない話でもある。)
 
もしそうであるとしたら、国民の利便性とこれまで育成してきた「郵便事業」の観点は存在しなくなる、数年前に言っていた利便性の確保は今回は意図されていない。しかも国鉄のように、救い難い赤字体質があるわけでもない。どれもこれも政治手法としては、してはならないことのように私には思える。
 
政権交代を唱える野党も、もうそろそろ黙っているときではなかろう。政府=与党間の問題にもう留まらない、また政権交代するなら、そのときは郵政民営化の整った体制に臨むことになるからである。

2004/9/9(thu)
 一部訂正(9/08)

昨日(9/08)の書き込みで
 
「・・・また選挙の支持を小泉首相は理由にしていたが、選挙は個別の政策を個々に認容するものではない。この前の参議院選挙の負けはともかく、支持が与野党伯仲しいるなかでは、反対意見の側の主張も政策の結果に残すのが民主主義の原則であるはずだ。民意の半分を無視する結果になろう。さらに自分の党のなかでも、自民党の支持者でもない人々も支持しそうな意見も出ている。」
 
の部分は、国政選挙ではなく党内選挙のことを言っているらしい。報道が部分的であるうえ、勘違いしていたか。結果自民党内で反対されている、ということ。しかしいま政府のしているやり方の本質は突いていると思う。
 
さらに私のように若くして病気をした人間にも、民営化後の郵便保険会社が、低額ではあるが、生命保険に代わる簡易保険を提供できるかは疑問である。現在の郵便局の簡易保険は、生命保険の加入条件を緩和すべきという私の意見にも一致する。超長期の財務運営にも、現在の郵便局規模の事業規模は適切と思う。
 
この事情に関連して民業圧迫というが、市場規模は既存のものとして受け入れるのが経営ではないか。(無限に市場が拡大して欲しいのは、どの業界でも同じ。それに従事することで出世したいのは、時代遅れのサラリーマン・ホワイトカラー指向であろう。)実際私たち財務省系の損害保険にしても、自動車・火災保険など、一番利益のある部門には、厚生労働省管轄の営利を目的としない共済があり、生保の民業圧迫以上の損失を受けてやってきている。さらに保険代理店に対する政策・経営方針の現状は「虐待行為!」に近いであろう。
 
野党に向けて言えば、年金だけが社会保障の問題ではないのだ。根本から考え直して欲しいものだ。

2004/9/8(wed)
 昨日の郵政民営化の話、 

4つの株式会社に分けて、特に簡易保険は保険会社になるらしい。生命保険会社が民業圧迫と言うが、そうであるなら、病歴のあるひとにも生命保険に変わるものを安価に提供してから言うべきことであろう。さらに生協などの共済があるのに、生命保険業界の主張だけが理由にも思われない。実際にはアメリカの保険会社−健康保険まで食い物にしている−の主張を取り入れているのではないだろうか。民営化後も現在と同等のサービスを国民に保証する、と言っていた話はどこに行ってしまったのだろう。
 
他分野も同じことであるはずだ。また選挙の支持を小泉首相は理由にしていたが、選挙は個別の政策を個々に認容するものではない。この前の参議院選挙の負けはともかく、支持が与野党伯仲しいるなかでは、反対意見の側の主張も政策の結果に残すのが民主主義の原則であるはずだ。民意の半分を無視する結果になろう。さらに自分の党のなかでも、自民党の支持者でもない人々も支持しそうな意見も出ている。
 
専門家の目からすると郵便局が合理的なのは、4部門の仕事を集中化する効率性を持っていることなのだ。僻地で分野ごとに分かれれば、採算性が成り立たないことは言われている。また個々のサービスを一箇所でまとめて受けることが出来るのは、利用する国民の側には有利である。私などが便利なのは駐車場を備えくれていることだが、(この時代に銀行は午後3時以降、駐車場を閉じるか、有料化している。)こんなことは個々の企業にできることではない。24時間の受付も他業種では拒否するか、さらに過酷な労働法無視の経営が行われるだろう。郵便局は午後4時まで金融業務をしている。少し拡大してもよいだろう。
 
資本系列だけを分離するのであれば、それは一種の会計操作のような気がする。郵便局から流れる資金が不当・非効率な投資・融資に使われているのであれば、それこそ政治が上部構造でコントロールすべき問題であろう。
 
解せないことは、いくらもある。私は京都だが、長年小泉氏の政敵であった郵政族と言われた議員は、もう引退したではないか。(私人に帰られているので名前は出さない。)このあともさらに過激な民営化をするのは、損害保険業界に強いている過酷な、アメリカ資本優先の態度となぜか一致してしようがないのだ。誰であれ、政治のために、我々はまともに生きることも許されていないようだ。


 
小泉改革の欠点は、非常に部分的に、一部の改革を強行に押し進めることなのだ。その改革が社会全体に及ぼす影響についてはまったく考えていない。損害保険業界にしても受け皿になる仕事を用意するとか、損害保険の代理店が、離職した場合、同じ業界で再就職できない慣行、純血主義を改めさせるとかは、手当てもしていないのである。これだけ優秀な人材が大量に社会に放出された場合、どれだけの軋轢を生じるかは補償の限りではない。郵政においても同じことである。

2004/9/7(tue)
 ロシアの人質監禁事件

いまから30年にはまだならない、しかし20年以上もむかし、法学部の学生の頃、私は政治学の先生や大学院生と酒を飲んでいた。
 
当時はまだ多くをベールに隠していたソビエト連邦についての書物を図書館で読んで、おかしいことに気づいていた。−こんな問題に取り組むのは、私の人生では始めてだった。−当時は冷戦の問題に隠れて、当時世界中が取り組んでいた問題が未解決のままで、不思議でならなかった。民族・宗教、貧富の格差が大きい。これを統合していくのは、並大抵のことではなかった。連邦が分裂する原因をこの意味でも含んでいた。
 
大掴みかも知れないが、それは学生でもわかりやすいことで、上の酒の席でこの点を年上の専門の人たちに提示してみた。ある程度は肯いてもらった。実際には東西世界の経済格差と情報の流入が大きな要因になったと思うのだが、20年後、東西冷戦は収束し、それとともに私の考えは別の意味で現実のものになった。現在冷戦に隠れていた諸問題が最重要で深刻なものになっている。
 
若い頃に書物から得た洞察の連鎖はいまも私の頭のなかで、特にこの数日駆け巡っている。民族・宗教、貧困を背景にしたテロリストたちによって、狭い学校の体育館に飲まず食わずで閉じ込められたあと、裸のまま、血まみれの少年少女たちが銃弾と爆弾を恐れて逃げまどう、大人の抱く子供たちがこうあって欲しいという姿からはおよそかけ離れている。しかも加害者には中年期の女性たち、通常は母親のイメージの人たちが含まれている。
 
あのコーカサス地方は、民族が分かれ、国家がいくつもある。そして過去には、ロシア帝国の強大化につれて南進が進んだ地域でもある。今後どうなるのか、あの地域の異民族をロシア社会に融和し吸収できるのか、これが疑問である以上に、一部では独立させる方向も示唆されている。そうすれば果たしてチェチェンは独立国としてやって行けるのか、テロリストの集結も考えられる。ロシアにとっては大きな火種を南方に抱えることになる。近隣に住むロシア人の保護の問題も出てくる。
 
さらにそれは国際的にも不安定な要素がまた出来することになる。そのときにはより南の地域に、このまま行けばアメリカなどが大きな影響力を保持しているであろう。あるいは工業化が進み、中国・アジアなど現在の工業生産を担う国々を空洞化している状態かも知れないのである。ロシア一国で解決できる問題でないようにも思う。
 
また現時点では今回の犯行グループが、チェチェンの問題にこじつけたものかも知れず、外国のメンバーを多く含む可能性があるかも知れない。その場合はなおさらロシア一国の問題でないが、アメリカの「911」のように神話化され、過剰な軍事力ないしはより強大な国々の力の行使に結びつく懸念もある。

実に大変な問題が生じた。当分は国際関係のニュースから目が離せないと思う。

 
やはり物騒な見解が出てきました。
テロを防ぐために国外のテロ組織拠点を先制攻撃」
(9/08記)

2004/9/3(fri)
 「それ自体咲き誇る桜の花びら」について 

少し哲学的なお話をしたいと思います。もうそろそろ論じて置くべき時期であろうと思われます。ただし私も若い頃の大学院生のときのように精緻な論理でお話することはできないし、一般の人にも解る範囲内でお話します。私の詩集の表題作「夜桜は散り落ちて」の実質的な詩行は次のように始まります。
 
静寂にして、浄らかなる闇のうちに揺れ
弦(イト)を打ち降ることなく、音無き音を鳴らせ
古歌のごとく、唱えるがごとく
それ自体、咲き誇る桜の花びら

 
問題は「それ自体、咲き誇る桜の花びら」ですが、人間に見られることもなく、どうして「それ自体、」があるかという問題があります。ここには認識論の懐疑があって、自己の外部のものを正しく見ているかどうかは実は解らない、あるいは外部のものは存在しないのではないかと、論理や言葉の上では言えてしまいます。もちろんこれは間違いであって、自己さえも疑い続けている自分の意識自体は疑っていないことになるからです。
 
哲学的にも正しくは、直感やその真実さを確信することによって事物は存在していると判断できるし、私たちの目で見られる以前にも存在していることは確信することができるのです。従ってこの「確信」・「直感」や、これらを成り立たせている認識作用と人間を研究することが、哲学の課題になるのです。
 
一方でこの研究される人間の在り方、これを実存というのですが、ここは詩や感情など、感性の成立してくる場でもあります。これが人間という存在が、他の「もの」と云われるものから区別される大きな点です。
 
私たち、特に日本人が春になると桜が咲き、それを見に行き、感動する。本来一体何の関係があるのでしょうか?無いようにも見えます。正しい答えは、「桜」を人間がある関係に持ってきているからです。それには、「それ自体、咲き誇る桜の花びら」をまず区別し、次の連では
 
彼らのこの営みは人間の論理に於いてのみ、「それ自体」存在し得ると思考可能でしかない。一方桜に関わる人間の方はその論理的な気分を忘れ果て、あまり「知的」ではない

青空に芽吹き、宵の刻限に熟して散る花
ひとを誘い、男女をともない
風情の中の長(オサ)となり、繰り返しいつまでも
灯かりもって祭られる花

 
と続くのです。いかに哲学的な例示にされる命題が、問題の設定の仕方によって大きく意味を違えるかが解ると思います。懐疑論を振りかざして、「それ自体、咲き誇る桜の花びら」ありえない!と言ってしまえば、私は何を言ったかと言われそうです。
 
「実存哲学」の優れた点は、はじめから人間存在、つまり実存は主観・客観、外部・内部の区別をされずに、問題設定がされていることです、つまり本来研究されるべき「確信」・「直感」など認識作用を排除しないことにあります。
 
「実存哲学」が始めから学問でもしそうな、理論的認識力のあるロボットのような人間ではなく、日常の人間の事物との交わり、素朴な人生問題から分析を始めるのは、主・客未分の、或いは社会的に特殊化していない人間性に着目していると私は判断しています。上の詩行にも、
人間の方はその論理的な気分を忘れ果て、あまり「知的」ではないとあります。
 
「実存哲学」にとって「実存主義」のように孤独な存在とか、理論的な主体ではないとか、よく強調されることは付随的な問題でしかありません。「実存哲学」と「実存主義」の区別も、理論的な問題設定か、人間存在の人生論的な思想かの違いとして、哲学史的には押さえておかないといけないことです。
 
しかしもとより、断じて哲学は詩にとってのファッションではありません。哲学的な既述によって春における人間と桜の関係がはっきりしてくるのです。そこからこの詩は花見という文化の現象を記述して行くのです。そこにポエジーがあります。特殊な方法論と言えば、そうなのかも知れません。
 
多かれ少なかれ私の詩には、哲学で得た知見が隠れています。それが欠点でもあり、長所でもあるでしょう。それは私が一番解っていることです。

2004/9/1(wed)
 アテネ・オリンピック、マラソンの妨害で、 

先頭選手をコース外に押し出そうとした犯人に、ギリシアの軽犯罪を扱う裁判所は僅か数日で、約40万円の罰金と3年間の執行猶予付き判決を出したそうです。
 
第一に疑問な点は、軽犯罪にしてはかなり重い科刑であるのに、あまりにも迅速な裁判だと言うことです。ギリシアの裁判所にしてみると、一連の軽い処遇・判決は、被疑者に精神障害があることが大きな理由になっていると言われています。一部のマスコミは被告の精神障害については報道もせずに、「甘い判決だ。」とばかり言っています。
 
もしこれが日本ならどうでしょうか?まず精神障害が疑われれば、時間をかけて医師による鑑定をしたのち、検察官が告発、数回は審議を重ねて刑を決めることになるでしょう。問題になるのは量刑と被告の精神状態でしょう。例えばあるかどうか知らないけど、前例との比較、障害があっても当時酒を飲んでいたというし、この場合は刑はより重くなるはずです。また軽犯罪を適用するにしても、暴行罪など刑法上の罪で争うなり、あるいは疑ってから、軽犯罪の刑を課すのが普通ではないでしょうか?
 
被告は同じEUの国の国民です。以前に同種の行為を数回繰り返しているし、今後の被告の治療・犯罪防止のためにも、より厳密な手続きが必要であったように思います。ギリシアの法治体制について少し疑問を感じました。
 
次に疑問なことは、イタリアの選手はペースを乱して3位、大変気の毒なことでしたが、犯人が市街コースの外から選手に飛びかかることが可能であったということです。刃物などの凶器を持っていなかったのは本当に良かったことですが、警備上の問題はどうでしょうか。
 
テレビを見ていると、観客が第一義的には犯人から選手を解放し、自転車で随走していた警官がそれに協力していたようです。日本であれば、警官が大型の二輪車2台で、先頭選手の両側やや前方を随伴走していないでしょうか?大型二輪では安定を保ち難い時速20K前後で、選手をバックミラーで確認しながら走るの、あれは見事な妙技ですね。また沿道の警察官も少なかったようです。
 
これらのことはあまり報道されていません。以後、そして次の大きな大会では模倣犯がでる可能性は高いでしょう。ぜひ対策を取って欲しいですね。

 訂正

最後から3段目
「次に疑問なことは、イタリアの選手はペースを乱して…」⇒「【ブラジルの】選手はペースを乱して…」
失礼しました。



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