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日録、風のなかで話しましょう


2005年3月

2005/3/29(tue)
「浜松」

 
ここは中州
川はもうすぐ流れを止める
ただ潮の満ち干きに阻まれ、あるいは引き寄せられて
少しだけ川に残されている「流れ」は勢いをつけ
川は、海を前にして澱みつつ海に注ぐ
 
推敲中、(時間が無くて、)難産している詩、河口の中州は普段は穏やかだけど、時に溢れては人の手が加わることを拒否します。それゆえ中州では過去も未来もない、歴史を越えて純な人間性が現れるように、したいのだが!仕上げる時間が無い!もうー、ほんと、時間が欲しい!

2005/3/17(thu)
最近特に感じることですが、

このホームページももう1年半、大分いろんなことがあったように思います、その一方で作品・評論のページでも、とりわけ多くはなくても確実にカウンターが進んでいる。掲示板に書き込みがそうあるわけでなくても、いただくメールを見ると、思わぬひとに見ていただいているようです。こういうのが楽しみになっています。ありがとうございます。

2005/3/13(sun)
ホームページを公開して

1日が過ぎた。長い1日だったような。いまほっとして、ある非常に不愉快な事に気が付いた。書かないではおれない。
 
私は保険屋をしていたので、他人にどう評価されても平気でいられる。そもそもどんな圧力が係るとき、あるいは非常時にも取り乱すようではあの仕事には適性がないであろう。(結果的に長男・長女の率が他業種に比べて異常なまでに多い。)また自営業でもあったので、所謂「孤独な戦い」は平気でしてきた。しかしそれが必要なのもまた、一般的にはひとは傷つきやすく、冷たい他人の反応には弱いということがあって、初めて価値を持つものだろう。
 
友人・知人をはじめ、ネット社会で掲示板に誤記・過剰な書き込みをして訂正をマスター側に何度か求めているうちに、冷たくされた、人間関係が壊れたとという話はとても多く聞いてきた。あるいはこれがネットのディスプレイの向こう側で起こる出来事・意識のなかのことは、なかなか推測できないにも関わらず、マスター側で勝手な偏見で判断を下すきっかけになることは多いようである。一体、どちらが愚かなのだろう。
 
ホームページを操る立場になって言えることは、訂正・削除などはあまりにも容易い、自分に顔を向けてくれている人に対して、ウェブ・マスターが協力するなど当然のことではないだろうか。あるいは欠陥のある書き込みが放置されることのほうが、私としては不快でもある。難儀な書き込みも、電話なりメールで簡単に訂正の効くことなのだ。背後にはネットが難しく見えることで、あるいはネットの向こう側を自分たちとは違う別世界のように考える、変に権威主義的で冷酷、自己保存一辺倒、曖昧に他人を評価する皮相な人格が蠢いているようである。
 
「一度聞いたことは忘れるな、一度したミスは覆い隠せ。」では社会が混乱するだけであろう。現実の社会は打ち合わせが効いた、「儀式」の続く「舞台」(舞う台)ではないのだ。
 
灰皿町のような公正なところに居ると、つくづく思い知らされる話でもある。ネットの掲示板に書き込みを躊躇する多数のひとたちは、いま私の挙げたような理由で書き込まないのが多い。実際に私たちは誰もが隣に住んでいるひとと変わらないのだ。今回は考えさせられた。
 
冨澤守治・パーソナル・ウェブサイト

2005/3/8(tue)
 快晴なり(今日も) 

また花粉症、さらに重く
だるさ・鼻水、もう耐え切れず  守治

 

2005/3/6(sun)
「百人一首−恋する宮廷−」

いま高橋睦男さんの掲題作(中公新書、¥740+T)を読んでいる。もっとも読む詩誌と新しく始めた仕事のせいで、昨年京都で取り寄せてから少しずつ拾い読みしていて、読了できていない憾みはある。しかし今回自分の歌をアップしたので、この機会に書き留めておきたい。私には、一読の価値はあるように思う。
 
この書物で驚くのは、もとは静岡新聞に連載されていたものであるが、高橋氏の古歌に対する驚くほどの識見であろう。定家の選んだ当時、詠まれた当時の「失われた世界」が、通俗的な理解ではただ素朴な情緒を森羅万象に喩えただけと見られがちな古歌の世界を鮮やかに蘇らせてくれる。
 
全国紙の選と京都の地方紙を見比べて解るのは、やはり関西では近代の叙情的な短歌によらず古歌の伝統が息づいている。茶席などでは歌を詠む場合もあり、それは近代的な短歌ではないだろう。また宮中に和歌を教授していた冷泉家の方たちは、いまでも古典短歌の流派を成している。(一方で昨年、私の損害保険の顧客が編集をしていた「塔」のような歌誌もある。−お互い何をしているかも知らずに15年、保険契約を続けていた。−)
 
個人的なことを言えば、私の母方は歌も江戸時代からやっていたようで、私はもちろん不勉強で母からの耳学問で歌を、なかば口にでるだけ書いているのだが、近代短歌らしくないのはこの遺伝子かも知れない。(もう少し勉強して、何とかしないといけないのは、いつも反省している。)あるいは叙情的なものをぶっつけるのであれば、現代詩を書いてしまうからかも知れない。
 
最後は言い訳めいてしまった。またまた反省。

大変な失礼を

高橋睦男さんのお名前、睦郎さんでした。
訂正して、お詫び申し上げます。

2005/3/3(thu)
 女性の待婚期間 

アメリカの女優、メリ−ル・ストリ−プが、日本では女性だけが離婚後6ヶ月再婚の「届け」ができないのは差別だと言っているニュースが流れています。学生時代、法学部で男もこの「待婚期間」を設けたら平等だ(^^)と言って、怒られたの思い出します。
 
話が混乱するといけないので、書いときます。制定当時は女性の貞淑性を示させるためでは決してない、子供の嫡出性を証明するためとか言っていました。現在では話になりませんね。絵に描いたような夫婦生活だけから子供が生まれる、なんて考えられません。下手すると、長男・長女?差別になります(^^)。
 
廃止すると、浮気している奥さんと間男が有利だとか指摘していた友人もいました。でもここで懲罰的にならなくても良いとか、私は話していたと思います。ただこの問題、女性だけでなく、新しく夫になる男性の問題でもある点は指摘していますね。
 
ここでももう潰れた前の結婚から子供が生まれるわけないとか言って、私(21歳の頃)、法学部でバカにされています。(そういう短期間に妊娠が外からは解らない、女性だけに解るとする、半ば興味本位ながら、強力な意見もありました。)長い離婚係争のあと離婚届けが受理されてのち、また6ヶ月も待つのは不合理なケースも考えられます。(この場合は嫡出性も何もないでしょう。)ちなみにもし間違って結婚届けが受理されると、検察官が訴えを起こすのには6ヶ月以上係るそうです。(いまは変わっているかも知れない。)そのうえこの法律、おばあさんにまで適用されます。
 
まあまあ何につけバカバカしいうえに、夫婦として認められない場合の不利益を考えると、早く廃止したほうがいいですね。なぜまだ残っていたんでしょうか?国会議員に法学部出が少ないせいかな?
 
こんなことに血道をあげて真面目に取り組んだあの頃を、メリ−ルさんのおかげで懐かしく、思い出しました。


※ポスト後に高齢の方に適用はないという判例があるとのことでした。追記しておきます。

2005/3/2(wed)
 寒いですねー。

京都から浜松に移ってきて、ここまで寒い想いをするとは。
 
いまごろ京都では盆地性の湿った低音のなかで、自動車のフロント・ガラスには霜が降り、凍りつき、ワッシャー液を出しワイパーを廻すと、瞬時に扇形に氷の幕ができます。「しまった!」と思いながら、外が見えずに宇宙船のカプセルのようになった凍える自動車のなかで(アポロ13号!)ひたすらエンジンの暖気運転が終わり、窓ガラスの氷を融かしてくれるのを待っている。昼間以外はそうでした。
 
浜松ではそうはならない、多分海から絶えず吹きつける強い風によるものだと思います。比叡颪(おろし)・西山颪ならぬ、空中に遮るもののない荒海、太平洋の吹きつけ。光だけは春です。(「風の宿り」→「春の習作」。)
 
こういうことは日付上の月の変更とは関係のないことで、私の意識ではまだ2月が響きあっています。多分それが止むとき冬が終わるのだと思います。
 
「風だけはまだ冬であった。」
(二十歳の頃の小説の書き出し。)
 
今日はまだ前月の日録をご案内しておきます。


 

2段目訂正。
「盆地性の湿った低音」⇒盆地性の湿った【低温】
 
改めまして、
今日はまだ前月の日録をご案内しておきます。



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