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日録、風のなかで話しましょう


2004年12月

2004/12/27(mon)
 浜松の海辺 

ということで(下記。)、やっと引越しの後片付けも終わり、今日は大量の詰め物などのゴミを浜松市の清掃局にもって行きました。(ダンボールや引越しにともなう廃棄物はサカイ引越しセンター。)防砂林の広大な松原と田畑のなか。その向こうに防潮堤があります。
 
そして、砂丘の向こうに、海です!
 
夕方だったので、水平線の上に一列に流れている雲間へと、赤い朱色の陽の入りを見、ついでに黄色の満月が水平線から昇るのを、激しく寄せる波の音を聞きながら見ました。砂丘の砂に足を取られるのを、どういうわけか自家用車に積んでいた杖をたよりに、歩いてみました。
 
騒いでいた女子学生のグループが4人だけ、声を懸けたそうにしていました。ひとりだけが犠牲になっているというなら、写真のシャッターぐらいなら押してあげるのに。あるいはひとりで海に向かっていく、杖をついたおじさんを心配してくれたのかも知れません。笑。
 
気がついてみると、この数ヶ月、廃業の決心、計画、引継ぎ、引越しと多々神経と肉体をすり減らしていたのが、寒い冬の、それも太平洋の強い潮風に吹かれて、少しすっきりとしました。海はいいです。特に私のような、人生の大半を京都盆地というくぼ地で過ごしてきたものには、格別です。
 
こんな広々とした光景が、自宅から10分間も車を走らせれば、行けるのは夢のようです。また何度でも、来ましょう。いずれこの辺りに転居したりして。良い「草枕」でしたね。
 
それにしてもどうして、陽や月は山から昇り、峰に(あるいはビルの谷間に)沈むと大半の日本に住んでいるひとが思っているのは、どういうことでしょうか?有数の海洋国と言われる日本に住んでいて、不思議に思います。(あるいは今日はじめて、気がついたということでしょうか。)
 
【掲示板に書いたものを、加筆・再掲】

2004/12/7(tue)
 住所変更と一身上の都合について  

みなさん、自動車を買ってから何年か使いますよね。その間には整備とか修理が必ず必要です。大抵は一定の整備工場かディーラーに頼みます。その技術やサービスに対しては代価を支払います。またあるいは大抵の病気は看護師さんと薬剤師さんがいれば治ります。でもお医者さんに診てもらいます。部品代や薬剤費だけにすれば安くて済みます。でも納得は誰も行きません。これら人の生命に係わる仕事が、顧客1名あたりの利益がいくらかだけを求めて行われるならば、恐ろしいことです。
 
お金を使うということは、他人にお金を儲けさせることよりも、それなりのサービス(奉仕)が「買われている」のです。それぞれの仕事は他人に奉仕するから、高い対価を得て「よいのです。」仕事とは
誰かから誰かにお金が移動するだけではない。
私たち保険業界も同じことで、単純にみんなからお金を集めて、事故に遭った人が保険金を貰うだけではありません。貰う、或いは被害者に払うまでには、つまり最初の契約の作成から保険金の支払い、満期になる契約を毎年検討して継続の手続きをするのには、各々の契約者の事情を理解したうえに、さらに相当大変な技術と誠意・熱意が必要です。
 
私自身はここに生き甲斐もありましたし、この日本という国では、まったく理解に苦しむのだが、常に孤立する、あるいは疎ましく迫害される「被害者!」のために、そのつどいつも全知全霊を傾けたつもりになっては、至らぬ努力もしてきました。その夢はいまも見果てぬままです。
 
これら、私たち「保険代理店という職種」(金融サービス=奉仕)の大切な仕事が、お金を動かすことだけに還元されて、その本体の仕事が見失われ、現在の日本では通販業者と、それ以外にも代理店とは違う形態で、様々な業者の際限のない参入、過激な過当競争のなか評価が低められている現実があります。もちろん私たちの同業者にも、功利的な利益と営業力のみを追及している、亜流の保険代理店がいることも大いに事実ではあります。これらの現状、
 
(これらは社会保障の重要な一部門であるから、社会的な意義も含め、以上に詳しく書きました。なおかつ保険代理店の数が国民1千人当たり1人の割合を割っており、社会経済的にも深刻な状況・影響を与えていることにも考慮しました。)
 
 
(1990年代にクリントン政権下で行われてきた、そして現在になって大きな社会問題になってきた、)「アメリカとの日米保険交渉」に端を発しているからこうも言うのですが、この「世界的な経済情勢」のなかで、私も限界のぎりぎりまで闘ってきました。しかしとうとう「個人の代理店」としては経営の諸条件を、現状のまま維持していくには、限界に行き当たってしまいました。それに非力を省みずに言うことが許されるなら、私には詩を書くという、負けず劣らず大切な作為(work)がこの世にはあります。(あるいは両方の「仕事」が、私のうちで「私を」支え合っているのです。)実際のところ上述のような、私の言い方では「保険改悪」という、1998年前後からの自称「保険改革」が始まって以来このかた、保険業においてはより高度な研鑽と保険契約の高度な取り扱い、そして事故処理以外には何も考えたくもないと思うのに、ここ数年というものは「合理化」・「先行きの不安」、それに加えて同時に「詩を書く」のも手が付かない状況が続いていました。
 
(そんななかでからくも投稿を続け、詩集を出すことができたのです。かなり辛い作業でもありました。)
 
しかしこれではいけません。
 
それでこのたび京都で経営していた損害保険代理店の業務を廃業して、弟の経営している飲食チェーンの仕事をしつつ、詩を書いていくことにしました。(今月中に移転します。)
 
もちろん保険業のほうも縮小して続けたく、交渉しましたが、能力や知識ではなく、如何せん縁故関係が特定の代理店に対して付保する動機の主要な理由になっている現状では、上記のような特殊な過当競争のなか、大型代理店に契約を集約して「効率化」を目指す保険会社の方針とは条件が合いませんでした。新しい土地でこれから自分の市場を築いていく、またこれからは「兼業」していく代理店のさらなる「新設」はとても無理でした。
 
(関西とは、財務省に代理店を登録する財務局の管轄が違うため「移転」ではなく、代理店の「解約・新設」になります。)
 
弟の会社で働こうとしている私に、企業の使用人として保険担当の職を紹介するという申し出があっただけです。論理的な結論ではあったでしょうが、もとよりお断りしました。
 
つい数年前までは、自動車保険・火災保険のシェアを争うだけであって、手段として保険代理店を増やしては、結果的に社会全体で補償を充実させることになっていた状況とは大いに異なります。現実に代理店が減った分だけ、典型的には自動車保険の若年契約者の付保率が落ちています。このひとたちは保険料の安くなる年齢に達しても、自動車保険をかけないでしょう。市場は小さくなり、しかも過当競争です。
 
本来であれば、私を信じて長年契約していただいている京都を中心とした契約者のみなさんには、友人の保険代理店と契約をしばらくの間分担すれば、安心もしてもらえ、責任を果たすことができたのですが、現状は止むを得ません。この半月、友人の代理店のひとたちと契約の引継ぎに周っていました。事理に属することとは言え、契約者のみなさん方には、せめて満期までも契約を看ていくことができず、残念無念、そしてお詫びするばかりでした。
 
私にしてみれば、20代の大病のあとまだ十分には回復していない自分の健康状態、生死の判定がつくのを待ち、合わせてもう病気の進行していた母親の看病ができるように始めたのが、この自由業的な損害保険の代理店でした。そして職業のスタートの遅い分、高齢になっても続けられ、良ければ一家を成すつもりで、この仕事に力を注いできました。母親の看病はできましたが、(後者の)現在からの私が求めた恩恵は受けられずに、始めたころから比べれば、職業自体が変質してしまいました。今では事故処理能力よりも、IT機器の操作、私には別の分野であった生命保険や医療保険など(かなり難しい)拡販に重点が移りました。損害保険に関しては、技術的にも勘ひとつで仕事ができるところまで熟練しながら、これは私の大きく悔やむところではあります。
 
しかし私たちの仲間の仕事を始める年齢が、20代後半から30代半ばが圧倒的に多い点を観れば、多かれ少なかれ、保険代理店というのは似たりよったりの事情を抱えています。これは事故などの災害時において力を発揮するひとが多いことにも呼応した傾向なのです。他人の痛みが解るということでしょうか。なおさらいまその人々が中高年に達して、失業保険もなく、行き場を失っている現実・悲惨さを、ぜひ社会も理解して欲しいものです。これは私ひとりの問題ではないでしょう。いやあるいは、こうして落ち着いて仕事を退くことのできる私は、はるかに幸福なほうの人間であるのです。
 
傍論に流れましたが、なにもかもも、これ以外の妥当な選択はありませんでした。そして保険代理店として私が挙げてきた活動の様々な実績が、どれほど些少なものであったにせよ、この処理によって消えることはないと思います。損害保険・特級資格は残ります。今後は情勢を見つつ、委託契約いただける保険会社を求めていくことにします。
 
従って住所は静岡県浜松市に変わります。本来であればここで現住所を公表したいところですが、ネットの事情を考えれば、それは差し控えさせていただきます。また大変ありがたくも詩集・詩誌をお送りいただける方は、個別にメールをいただければと思います。
 
詩のほうの利点としては首都圏の行事にアプローチしやすくなります。今後はより積極的に詩の世界にもアプローチして行こうと思います。
 
諸般の事情をご理解のうえ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
 
 
私は大阪府吹田市の生まれですが、かれこれ40年も在住した京都を離れるにあたり、それほどの感慨もありません。よく土地は知っています。しかしこの京都に私は何の血族的な縁故もない。ふるさとではありません。本来古来の大都市、京都は伝統的にエトランゼの街で、実はこれも珍しいことではないのです。
 
私たちはこれほども故郷というものを持ちません。
 
一方浜松とその周辺は、母の生まれ故郷で母方の祖母の故郷でもあります。縁の遠くなっている親戚はたくさんいます。何度か行ったきりでしたが、これから土地になじんでいこうと思います。静岡県西部のみなさん、そちらでお会いしましょう。

2004/12/1(wed)
 ようこそ! 

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