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海岸日記


2006年6月

2006/6/29(thu)
外付けハードディスク

ハードディスク、6,000円くらいで手に入りそうです。つけるのがめんどくさいと言ったら、ただ差し込めばいいだけですって!
難しいところはやってから送ってくれるそうです。
さ、少し落ち着こう。

2006/6/24(sat)
初生りトマト

例年のごとく、初生りをカラスらしきものに盗られました。
昨日、あとちょっとだなと思ったのですが、朝みたらもうなかった。悔しいー! 茄子は明日とろうと思うけれど、またなくなっているかな。
茄子は、取立てを塩もみして芥子醤油で食べると、美味しいんだな、これが。何するより美味しい。でも買ってきたのでは、エグミが出てね。
もう少しするとキンギョソウが一杯咲くので、トマトも目立たなくなる。それまで待ちます、しょぼん。

2006/6/21(wed)
落ち葉

ヤマモモは今の時期に葉を落とすので、毎日掃除しないと門口がお化け屋敷風になる。連日ゴミ袋一杯分。ちとうんざりだ。
草むしりもしなくては。
孫ちゃんに構っているうちに、我が家はほとんど廃屋。ぺんぺん草がにょきにょき。鬼の形相で草をむしり、竹箒をぶんまわし、やすむ暇なしの庭仕事である。
したがって、読まなければならないものが山積みで、その量に圧倒されて手が出ない。ブランキの『天体による永遠』を読もうと思って出してきたのだが、新聞の下になったままだ。そうなのです、気持ちがそこへずるずる引っ張られているんだけど…。
その前に、草むしりとガラス磨き。白状すれば、半年以上窓ガラスを拭いてないのです。いやー、動きたくないなあ。

2006/6/19(mon)
キヌサヤ豌豆

豊作なので、留守勝ち(わたしの方が)の夫婦だけでは食べきれず、子どものところにちょこっと送ったりしている。もっとも送料の方が高いんですけどね。ま、柔らかくて香りが良い無農薬野菜であることが取り柄でござんす。
胡瓜はさっぱり大きくならず、ピーマンは虫に食われている。黒っぽいところに白のまだら模様があるのは、揚羽だろうか。山椒もバジルも、あっというまに丸坊主。パセリも人間が食べるよりも虫用かも知れない。
バラは生き生きしている。ただ、差し芽は留守の間に枯れてしまった。
空梅雨なんだろうか、今日も1日晴れていたらしい。おっとっとの水遣りは、なんと申しましょうか、上っ面だけ。
わたしの主婦業も上っ面だけ。「奥」さんは棚上げで、「外」さんばかりやっている。

2006/6/16(fri)
急遽

また孫守に行くことになった。こんどはママが倒れちゃった。向こうのお母さんにママはお世話になり、わたしは息子と孫。
何日もママと別居する孫が可哀そうだけれど、考えてみれば、二人目が生まれるときは必ずそうなるわけで、いやお祖母ちゃんの出番は、多いな。
わたしは結婚前に実家の両親を亡くしているので、弟夫婦や妹が助けに来てくれた。今から思うと、みんなに迷惑かけたね。

2006/6/15(thu)
入梅

当市内には100円バス(ふらっとバス)が走っています。城下町で道が狭いので、大型バスが入れない生活空間が多く取り残され、そしてその住民の多くは老人であるという現状打破のために導入された、座席は10くらいしかない、床の低いバスです。大雪のときはお休みするときもある。
わたしは車生活なので、前から乗ってみたいと思いながら、なかなかチャンスがありませんでした。いやあ、ちゃちい車体で、乗っている間ずっと、お前さん大丈夫かい、代わりに引っ張ってあげようかなどと思っていました。
でも、乗用車とも大型バスとも違う視界が新鮮でした。観光用でもあるので、美術館に行ったり、歩行者道路を走ったり、ガタギシガタギシ、ゴーゴーゴー〜♪
100円の価値、十分にありました。わたしも運転手さんになりたかった。指差して、右よし、左よし、バックよし。
おいおい、前はいいのかい? 発車オーライ。

2006/6/11(sun)
昨日は…

何を思って日記を書いたのか知らん。さっぱり分からない文章ですな。
多分幼児の絵本を見ていたせいでしょう。シュッシュッポッポという擬音をD51の絵と結びつけるのは無理というものです。ジリリーンなんて時計は鳴らないし、ギーコギーコと電話はかけない。
まあ、どうでもいいけれど。
少々オツカレの mitsui K&T であります。満1才になったばかりの赤ちゃんに、4人の大人が振り回されたのであります。
溜まりに溜まった落ち葉を掃き、雑草をむしり、キヌサヤエンドウを収穫し、枯れてしまった植木鉢を片付け、今日はよく働いた。チャービルの種が落ちだしている。来年は、チャービルチャービルチャービルだろう。

2006/6/10(sat)
小道具

昔の映画がテレビで再放送されるとき、わたしは小道具や台詞の緩やかなスピードも楽しむ。
今はもう身近にはないもの。ダイヤル式の黒電話や、タイプライターや未舗装道路の砂埃だったりするのだが、かつて慣れ親しんだそれらが、現在のわたしの行動をも支配していることに気づくことがよくある。どうでもいいことなんだけど。
夢のなかに出てくる電話機は必ずダイヤル式で、夢を素材に詩を書こうとすると、それは指の感覚として甦る。まちがっても携帯ではない。実際に相手と繋がるまでの、わたしなりの時間が、より遠く詩の時間を拡げるのだ。焦燥感にしろ期待感にしろ、行間に取り込めるような気がする。その場にいるだけでは感知できない「ずれ」が、多分わたしの創作の泉なのだ。ウン十年書いてきて気が狂わなくてもすんでいることに、このずれ感は寄与している。胃袋をもう一つもっているようなものだ。ときどき戻して噛みなおす牛なのである。
とかなんとか変なことを考えたのは、友人がわたしの書くものにはこの頃セピアがかかっていることが多いと評したからだ。ババアになった証拠かしらん。まあいいや、どうでも。
幼児の絵本を読みながら、煙を出して走る汽車もダイヤル式の電話も大人のもので、子どもに見せてやりたくても、ちょっとやそっとでは不可能なのだ。まあいいや、どうでも。
まあどうでもいいんだけれど、孫守はしんどかったけれども、風邪もうつされてしまったけれど、風邪薬でうつらうつらだけれども、まあいいや、当方恥さらし〜♪会会長なのだから、えいや、書き込んでしまえ!



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