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++ 日記 ++

2004/9/26(SUN)
きのう、上野の西洋美術館に「マティス展」を見に行った。
マティスは、最も好きな画家で、現物に触れて、さまざまな思いがあふれだして、見終わってしばらくボーっとして動けなかった。目と頭の芯が疲れてぐったりした。
  *  *  *
最近読んだ詩から。

  タバコ屋

 ドアを押して薄暗い店内に入る
 店番がいない
 センサーが鳴らしたチャイムが響く
 奥の方から人の気配が近づいてくる
 ぼくはタバコを一個買うのだ
 しばらく店内を眺め回して待つ
 数少ない商品がぼくの視線で緊張している
 タバコ一個なら
 自販機のボタン一つで間に合うのに
 なぜぼくは店の中に入ったのだろう
 脚の不自由な老婆が姿を現して
 タバコですかと問う
 マイルドセブンを一つ、いや二つ
 ぼくは財布から千円札を抜き出す
 今日はよい天気ですけ
 老婆は腰を曲げてガラスケースから
 マイルドセブンを二個取り出して
 ぼくに渡す
 ありがと
 手のひらに老婆の指が触れた
 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ
 老婆は百円玉をていねいに並べる
 ぼくはそれをすくってポケットに入れる
 身を翻して外へ出る
 なぜぼくは自販機を使わなかったのだろう

作者は高橋英司氏。最新詩集「生存ほか」から。
作者と詩との運命的な出会い、なんていうと大げさで、またテレビの番組「う、うまい」になっちゃうけど、自販機でいいのに店に入って、ヒトと時間とヒトの時間を煩わせてしまうことって、あるよね。なんなんだろうね、それって。この詩も「する/しない」のあわいから生まれた。タバコを買うという些細な「こと」に潜む微妙な「もやもや」を逃さない眼力。形にする力量。
やっぱり、詩は、日常の些細なことのひだひだに潜んでる、そう思ってしまう。
「老婆(この言葉はあまり好きでない)」の描写も効いている。特に、「手のひらに老婆の指が触れた/一つ、二つ、三つ、四つ、五つ/老婆は百円玉をていねいに並べる」にはリアリティが浮き上がってくる。薄暗い店内、ゆっくり声に出して数えながら百円玉を手のひらに落とす腰の曲がったおばあちゃん。ちょっといたたまれない「ぼく」は「身を翻して外に出る」のだ。
と書いて気づくのだが、「身を翻して」はあまり効果的ではないように思う。とまどいの動作が具体的に感じられない。

この詩集では、「置物」もお気に入り。
開き直った物言いが心地よい。
作品が長いので、読みたい人は作者にねだってみては。

高橋さんは山形県の人で、私と同郷。私が詩なるものを書き始めたときはすでに詩人として名を知られ、活躍していた。「山形詩人」というチョクザイ過ぎるような名の詩誌を編集なさっている。


  *  *  *

次はたった今書いた私の詩。
マティスは製作過程、プロセスを作品と合わせて発表したそうだ。自分の経験でもあるが、第1稿が結局、最終稿になることもある。この詩はどうなるだろう。ときどき直してみよう。

   生きる

 インスタントラーメンが一個足りないので
 雨の日曜の明け方コンビニまで歩いた
 アルミの階段の手すりにカマキリがいた
 緑の三角の頭がおれをにらんだ
 腹が膨らんでいる

 信号の向こうのアスファルトに
 緑が横たわっている
 老眼の目が言った
 青虫じゃないか
 緑はネギのきれっぱしだった

 帰り
 カマキリは30センチ移動していた
 おれは見たがカマキリはおれを見なかった

2004/9/24(FRI)
ちょっと油断していると、詩というやつはすぐに逃げてしまって行方不明になる。そんな時誘い水的に読む詩人が何人かいて、大橋政人さんもいつからかその一人になった。
大橋さんの詩を読むと、「何だこれでいいんだ」って肩の力が抜け、少し遠くが見えたりする。
そういえば、「詩学」紙上で、大橋さんと対談したことがあったなあ。何で私なんかが?ともかく、何も知らなかったから、けっこう大胆なことも言えた。(ような気がする)
大橋さんも私も大いに酔ってしまって、対談後、司会の篠原さんに上野の有名なうなぎをご馳走になったけど、メロメロで満足に味わえなかった。

(なんであたしはいつもこんなにまえおきがながくなるんだろ)

さて。
少し前にいただいた大橋さんの新詩集「秋の授業」(詩学社)をやっと秋を感じるようになったきのう、読んだ。
おもしろいよ、やっぱり。やんなっちゃうなあ。
付箋をはさんでたら、そこんところがふくらんじゃって。
上質の、ライトヴァースだと思う。
ちょっと観念の匂いが漂うけど。

  加え算

 一日を足すと
 一月になり

 一月を足すと
 一年になるが

 一年を足しても
 一生にはならない

 最後の息を
 吸うのか
 吐くのか

 いずれにしても
 私が吸った息の総数に
 最後の一つを加えることはできない

 私が吐いた息の総数に
 最後の総数を加えることはできない

 これまで
 営々と足し上げてきたのは
 なんだったのか

 最後のところで
 加え算は破綻する

「最後の息を/吸うのか/吐くのか」なんて、どっちだっていいじゃないか、だれが気にする?        でもね、
こんなどうでもいいところに注目する、これが詩人の詩人たるところ。
「最後のところで/加え算は破綻する」と言いつつ、人生ならぬこの詩は、破綻しない。スタイリッシュで、計算が行き届いている。
ウウウム・・(感心してるところ)
けれど、言わせてもらうなら、(確信はないのだが)計算された味には、浅いおいしさにつながる危険はないか、とも感じる。ほとんど勘のようなものだけど。

もう一つ。

   柿

 秋だから
 封筒や
 ハガキの山の上に
 文鎮がわりに
 柿
 というものを一つ
 置くことにした

 それだけの話だ
 夏だったらトマトだけど
 トマトはどうも血の匂いがして
 
 柿には
 臭いがない

 生身であるのに
 だれかが丁寧に仕上げたような
 確かな造型と輝きがある

 朝のひかりの中で
 封筒やハガキの山が
 少し沈んでいる

 まるで
 柿の快い重さを
 静かに確かめているかのように

「静謐」、なんて使ったことのない言葉が浮かんだ。
後ろの、3連が静かに、強く訴えている。
いい詩だと思う。

 *  *  *

上のことと、まるで関係ないのだが、最近よく耳にする「(悲しい気持ち)でいっぱいです」という言い方が、どうも気になる。「いっぱい」なんて、子どもっぽいじゃないか。
ま、最近の日本は、映画なんか特にそう思うけど、総体的に幼児化してるからね。重厚にして、深遠な大人の文化、なんて商売にならないんだろうね。

2004/9/20(MON)
きのう、19日は詩人「山之口獏」とともに過ごした。
沖縄の河合さんから送っていただいた、詩誌「KANA第10号《山之口獏生誕100年記念》」をじっくり読んだ。特に娘の泉さんのへインタビューと講演の採録の中身が味わい深かった。
娘という立場ではあるが、冷静かつ客観的な目で見ていて、それでいてお父さんへの愛情がジワーッッと感じられる物言いだった。

   ある家庭

 またしても女房が言ったのだ
 ラジオもなければテレビもない
 電気ストーブも電話もない
 ミキサーもなければ電気冷蔵庫もない
 電気掃除器も電気洗濯機もない
 こんな家なんていまどきどこにも
 あるもんじゃないやと女房が言ったのだ
 亭主はそこで口をつぐみ
 あたりを見廻したりしているのだが
 こんな家でも女房が文化的なので
 ないものにかわって
 なにかと間に合っているのだ

この詩人の有名な一篇である。
こんな作品のために、「貧乏詩人」の冠をもらい、「詩人は貧乏じゃないといい詩が書けない」など言われる魁となった。
だがこの詩の勘所は後半にあって、「亭主はそこで口をつぐみ
/あたりを見廻したりしているのだが」あたりのクッションの置き方、また「女房が文化的」とはどういうことか考えるとよくわからないけど、なんとなくわかる、というほどの落とし方にあると思う。間や距離のとり方がうまいので、余裕という空気が立ち上ってくる。
この詩、「電気〜」が4回、「〜ない」も4回、「〜のだ」も4回使われているナ。繰り返しでリズムをかもし出している。そう思って、現代詩文庫で他の詩をあたると、あるある、第三詩集の「鮪に鰯」には文中の「〜のだが」、文末の「〜のだ」がワンサカ。
私などには「〜のだ」は使いにくいナ。ドグマ的断定、押し付け、しつこさにつながる恐れがある。
けれど、その目で獏さんの(と言わせてもらおう)詩を読み返してみたら、これが厭味じゃない。ふしぎ。逆に、「のだ」を外して読むと、どこかふわふわと軽い感じになる。「のだ」が重石となって、地に足が着いた、どっしり構えた作品になってるように思えた。
最後にちょっと気になる、獏さんの短い一篇。

  湯気

 白いのらしいが
 いつのまに
 こんなところにまでまぎれ込んで来たのやら
 股間をのぞいてふとおもったのだ
 洗い終わってもう一度のぞいてみると
 ひそんでいるのは正に
 白いちぢれ毛なんだ
 ぼくは知らぬふりをして
 おもむろにまた
 湯につかり
 首だけをのこして
 めをつむった

1行目の「白いのらしいが」が「白いのが」じゃないところに戸惑い、うろたえが見える。さらに「まぎれこむ、ひそむ、知らぬふり、おもむろ」などの語彙にも、認めざるを得ない「老い」への思いがにじむ。そして最後の3行がおかしい。普通なら、「首だけをのこして/湯につかり/めをつむった」だろうけど「首だけをのこして/めをつむった」とやったことで、目が他にもあるような、ユーモラスな表現になっている。

2004/9/12(SUN)
今日、雑誌「ナンバー アテネオリンピック永久保存版」を買ってきた。私も今年の夏は、オリンピックを大いに楽しんだ。何度も「感激する」という感情を味わった。日本選手の活躍もいい。柔道の井上やアメリカの陸上3選手(M・ジョーンズ、ディバース、それと、名前ど忘れ・・男子、ハードルの前チャンピオン)の敗れたシーンも忘れがたい。世界のトップクラスのしのぎを削る戦いは、勝っても負けても、見ている人の心を揺さぶる。自分の中のどこかわからないけど、心が確かにあることを実感した。スポーツはしばしば予測を裏切る。だから感激したり、失望したりすることができる。テレビの見え透いたドラマなど目じゃない。
買ってきた「ナンバー」の「巻頭言」(海老沢泰久)がいい。「今度のオリンピックは、見ていて非常に気持ちがよかった。(中略)その選手たちの見せた笑顔がじつにすばらしかったからだ」で始まり、柔道の谷本歩実を引き合いに出し、「彼女はインタビューで、金メダルを取ったら古賀コーチに思い切り抱きつきたいと思っていたといっていたが、決勝の試合が終わるや、そのとおりにコーチの古賀稔彦に突進し、彼の胸に抱きついて、そういうことに慣れていない古賀の目を白黒させたのである。僕は、オリンピックという舞台で、自分の感情をあれほど素直に表現した日本選手をほかに知らない。」と記す。それは「スポーツを楽しむことも、ユーモアを発揮することも許さないような精神主義を強制していた」そんな「日本のスポーツ界の考え方が変わったことを示しているのである。日本のスポーツが、つまらない精神主義から、スポーツそのものとしてようやく独立したといっていい。その意味で、こんどのオリンピックは日本のスポーツにとって画期的な大会として記憶されるだろう。僕は、史上最多のメダル数よりも、そのことをよろこぶ。」と結ぶ。
この意見に、賛同する。
実は、普段あまり読まない「ナンバー」を3冊も買ってしまった。「ATHENS2004 PREVIEW2」、「アテネ五輪特別編集 THE GOLDEN DAYS」、それに今日買った1冊。いずれもオリンピック特集だ。どうも最近スポーツなどを題材にしたドキュメンタリーの味にひかれる。切迫感がある。虚構の白々しさがない。文学的でないのもいい。
そういえば、今はなき山際淳司の書いた「江夏の21球」を思い出した。実際の昭和54年日本シリーズ 近鉄対広島第7戦
も信じられないようなドラマであったが、この記事も読ませる。ドラマの裏側、瞬間の判断、勝負師などという言葉が読後残る。これもナンバーの記事で、「ナンバー ベスト・セレクション1」(文春文庫PLUS)に入っている。「江夏の21球」をいつかNHKのテレビでやっていたけど、ビデオ録画しないでしまった。だれか持ってないかな。ダビングさせてほしい。

2004/9/7(TUE)
書こう書こうと思っていて、書き忘れていたこと。

5月末に詩集「ア」を出したが、その定価を500円にしたことについて。
まず一つは、詩集の値段が高すぎることに対する反発。詩集によっては1万円とかいうのもあっていいが、一般に必要以上に高すぎる。マニアでなく、義理ある人でなく、詩が好きな無名ファンは買わないよ。
もう一つは、紙焼きの詩集も作るけど、ネットで私が知らない人に読んでもらいたいので、(すでにしているように)ネットで全ページ、公開するつもりであったこと。ネットでは無料で見れるから、その上でターコイズブルーの表紙の詩集を手元においておきたかったら、ほら、500円でいいじゃない、というわけです。
けれど、こんなこともあった。池袋の「ポエムぱろうら」に置いてほしかったんだけど、定価が千円から、っていうんだよ。
ちょっとくやしい。

2004/9/4(SAT)
8月7日だと思うが、朝日新聞「天声人語」を読んで、ハタとひざを打った。
記事は、20世紀を代表する写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンに関するものであった。
ある言葉が独り歩きし、やがては歴史に残る言葉になってしまうことがある。ブレッソンを有名にした写真集のタイトル、「決定的瞬間」という言葉がそのいい例だ。という書き出しからブレッソン本人について触れ、記事はこう続く。
・・・「もっとも些細なことが大きな主題になりうる」。そう考える彼(ブレッソン)は「日常」の中に「非日常」をかぎつける人だった。「瞬間」に「永遠」を見つける人といってもいいかもしれない。・・・
ここですよ、ここ!ひざを打ったのは。
詩でなにを書きたいのか、薄らぼんやりとあるような気はしていたけれど、あと一歩判然としないまま書き続けてきた私のモヤモヤをきれいに払ってくれたのです、この言葉は。
聞かれれば今まで「微細主義」とかいってたけど、姿勢としてはそれでいいんだと言ってもらえたように思えた一日だった。
アンリ・カルティエ=ブレッソンはこの週に95歳で亡くなったという。
「決定的瞬間」ではないが、1冊持っている写真集「カルティエ=ブレッソンのパリ」を今夜は開いて、「瞬間」にひそむ「永遠」を見つけようと思う。

2004/9/3(FRI)
あ〜あ、晩ご飯の後、明日の合評会のための1編を書こうとノートPSを開いたまま、この時間(午前2時半)まで、寝ちまった。何度か起きかけたんだけど、何度もダメだった。
素材はあるんだけど、これからやらなきゃ。できるかなあ、不安。



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