「踊るサテュロス」と「春の雪」
二月二四日の午後の上野公園は曇天の静かな空でした。池の噴水はかき氷のように真っ白で、寒緋桜(緋寒桜とも言う。)、紅椿、白梅、紅梅などが、まだ冬枯れ一色の樹々の世界にわずかな灯りのように咲いていました。わたしたちは真っ直ぐに東京国立博物館の表慶館に向かいました。二千年の眠りから覚めた「踊るサテュロス」に会うために。
「サテュロス」は、ギリシャ・ローマ神話に登場する「森の精」で、葡萄酒と享楽の神「デュオニュソス(バッカス)」の従者です。このブロンズ像は古代ギリシャ最高の彫刻家プラクシテレスの作品と言われています。 一九九九八年イタリア南部シチリア島沖で漁船の網にかかり、奇跡的に発見されました。この像は二千年以上前にギリシャで制作され、アテネから輸送中に船もろとも海に沈んだものと考えられているそうです。両腕、軸足となるはずの右足がなく、頭部中央も欠けていますが、お酒に酔い、舞い踊るサテュロスのからだのうつくしい躍動感、なびく髪は、その欠損を感じさせないほどでした。この像は海から引揚げられた後、ローマの中央修復研究所で、四年にわたる修復を経ています。同行者は「美しいね。」とつぶやきましたが、それ以外の言葉はなかったとわたしも思います。
観終わってから、寒い公園を少し歩いて、都美術館のティー・ルームであたたかいコーヒーを飲みながら休憩。なんとなくまだ言葉がみつからない精神状態でした。二千年という時間を超える心の作業が簡単にできるはずがないのです。わたしにはたった数十年の時間さえ超えることができないのですから。
そこを出て「動物園に行ってみようか?」となったのですが、動物園はもう入場時間を過ぎていました。「では、アメヤ横丁へ行こう。」ということになり、ブラブラとあちこちをのぞきながら、わたしは「ロッテ・ラミー・チョコレート」を十箱買いました。このチョコレートは冬季限定販売の上、最近は近所のマーケットで入手不可能になってしまった、わたしだけの「マイブーム・チョコレート」なのです。同行者は少々あきれた顔をしていましたが、これはわたしの大切な越冬用食糧なのです。その後、新宿に出て、いつもの面子でいつもの場所でいつものごとくお酒を呑んで、「サテュロス」の報告やら、ネットのお話やら、遅いバレンタインもどきやら。
帰路、春の雪が盛大に降りました。牡丹雪でした。白い道を歩きながら、降りかえっては自分の足跡を見ていました。あれは数十秒前のわたしの足跡。もっと向こうには数分前のわたしの足跡がすでに消されそうになっているのだろう。このわたしの一日のなかに流れた二千年の不思議な時間。
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