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骸骨人厭々日録


2003年9月

2003/9/27(sat)
性格と運命。

以前から感じていたが、転職を重ねるうちに、自分のひとに相対する性格に問題が在るように思えている。そう思うに至った。人から見ればさしたる性格ではあるまい。
「だれもが自身の固有の感受性をそなえている」このことが性格を形成しているのだろう。
このようなことは、だれでも考えているはずだ。たいていの人が悩むのではないか。すこしは開き直っているのだろうか。
「性格こそ運命の導き手」(ヘラクレイトスの言葉)
まったく、そのとおりだ。自分を考えても、人のあれこれを思っても。

2003/9/26(fri)
「ぺらぺら」9号、印刷へ。

さきほど「ぺらぺら」9号の版下を印刷所へ送った。印刷所といっても、友人が印刷機と折り機を持っているので、そう逝ったのである。さすがに閉じることまでは出来ない。
なんと2年8ヶ月ぶりの刊行である。まあ、そんなもんだ。その気になったときに出すのが原則なのだ。
言い訳めくが、平居謙さんがプロデュースしている『Lyric Jungle』に2年間書いたことも理由になるだろうか。これから同人から会員になり、1年に1回書く約束だ。そうだ金井雄二さんの「独合点」にも書く約束をしていた。
「ぺらぺら」も年1回は出していくつもりです。
9号は10月20日発行です。灰皿町住人の皆さまには、出来次第お送りいたします。

2003/9/12(fri)
「ぺらぺら」9号の発刊。

いよいよ、8号から2年8ヶ月ぶりに9号を発刊する予定。10月の初めか中頃になります。ほぼ原稿はそろっていて、編集作業が発刊時期を決めることになりそうだ。
われながら呆れるほどのマイペースだ。一度9号を出す予定で原稿を集めたことがあるが原稿を頂いた方に迷惑をかけてしまった。すみませんでした。マイペースというのもはた迷惑である。勝手に頓挫してしまった。
言い訳めくが、平居謙さんと山村由紀さんが責任編集の季刊『Lyric Jungle』に創刊号からいままで(7号)同人であり、締め切りに追われていた(?)のです。
ううむ。言い訳になってないか。ま、いいか。
今回の「ぺらぺら」9号の執筆者は秘密ですが、すべて詩だけの掲載になります。「ぺらぺら」は売り物ではないのでタダですが、今回から一応定価を100円とするつもり。催し物で出店を想定しているからです。

2003/9/5(fri)
奥村真さんの詩集から引用。

分別の盛り場  奥村真


噴水のへりに腰をかけて
風を描いている子供たち
空を呑み込んだり吐き出したりする青年たち
大地に雪駄で降り立ち
足を洗っている渡世人たち
ごみ箱を漁っている隣人たちの傍らで
老夫婦が日向ぼっこをし
樺色の列車が走り抜ける
こんもりした繁みのなかで
地鎮祭に集う愛人たちや
一列に並んだ斑らな鳥も
バタバタ降りたり留まったりするけれども
噴水の音でかき消され
我慢に我慢を重ねた
こころが静かに壊れる
働きかたがわからなくなって
いっとき路頭に迷うだろうが
またこころは生える
たとえ前後のみさかいがなくなっても
別の触覚がきっと働きだすだろう
アリもキリギリスも互いに尻尾を噛み合って
次から次へと踊り出す
ここは朝もやと夕暮れの中間駅だ
広場には怠け者たちがこぞって生き残り
古巣からもちよった残飯を食卓にならべる
最後のひとりばかりが集う枯れた空き地で
時計に目をやりネクタイを締め直し
飲み残した缶をぐいっと一気にあおる


奥村真詩集『分別の盛り場』
発売元『白地社』、編集協力:長谷川裕一
A5版、242P、送料込1,800円

2003/9/1(mon)
「役に立つことば」をほどく      足立和夫

私は「季刊ぺらぺら」という個人誌を出している。もう一年以上たつのだが、その第2号の「あとがき」に「役に立つことば」ということを書いた。次の文がそうである。

 ことばはナイフのように凶暴に腹に刺しこまれるこあるが 普段は心の血液のようなものである、と思う。
 「詩作品」の意味を無視するわけではないが、「役に立つ ことば」というものが詩の役割として機能することがあ  る。
 謎のような生存の深みに嵌まってしまった人にとって、こ とばのビッグバンが産んだ心の闘争は避けられないもの  だ。
例えば、窮地に追い込まれる、あるいは単なる心の落ち込 みに対する処方箋としての次のことば。
 「強気にしろ、弱気にしろだ、貴様がそうしている、それ が貴様の強みじゃないか。・ ・・・・・・貴様がもとも と屍体なら、その上殺そうとする奴もあるまい」(小林秀 雄訳・ランボオ)
 そんなことばを、もう一つ得た。
 「またこころは生える」(奥村真)
この奇妙なおかしみのある詩句には、深い慰めと励まし  が、たっぷり含まれている。 私も、可能ならいつか「役 に立つことば」を創ってみたいと思っている。

 この「役に立つことば」の鉤括弧は強調しているわけではなく、ちょっと違うぞでも取りあえず、という気持ちを表わしているのであって、書きながら、ことばは大工道具ってわけじゃないぞ、と思っていた。要は詩句のその一片のことばが脳に強く刻印される事態がしばしばあることがいいたかったのであり、不遜にも私の書く手からもそんなことばが出ないかと思ったのだ。つまり、その時点では適切な表現が見つからないまま「あとがき」を書いたのだ。私の不明である。だが、この不明には詩とはなんであるのか、という問いかけに応えられない曖昧さが棲んでいる。

 誰もが生きて孤独のなかで経験する現実。その困難に出会って屈してしまったとき、もがきながら血液のようなことばを求めるのではないか。思わず手をのばし空を掴む。どうすればいいのか。激しい暴力の渦巻きを引き出すひともいる。通常の文法や形容、意味を超えたことばを引き出すひともいる。このひとは詩人なのか。沈黙のなかに深く降りていくひともいる。うろたえて身も心も縮んでいくひと。酒を飲みとどまることを知らずすさんでいくひと。このひとたちにとって、ことばは何なのか。

 ある詩の朗読会、というか何人かの詩人が自作の詩を持ち寄り、その書き言葉を自分の声で模倣するという趣旨の会合を見にいった帰りに、電車のなかで奥村真さんが、酒に酔った口で「詩というのは、端的にものをいうことだよ」と私の酔った耳に吹き込んだ。そうなのかと思う。酩酊のなかではあったが、印象が強かった。いずれにしろ詩は個人の胸のなかで響く。まれにだが世界を視る方法を学ぶことさえある。

 私の場合、とくに暗いといわれる詩を好む。偏愛しているといってもいい。粕谷栄市の謎めいた詩篇は最も好むものである。世界が在ることの驚愕。そして在るという謎のなかで生きるしかない人間の姿。謎のままが日常なのだ。登場人物たちは通常の意味づけを剥がされていて、世界が在ることの謎を見るその視線によって記述される。

 粕谷栄市は詩人である。はばかりなく断言する。なにをいまさら、といわれようが私は声を大にしていう。粕谷栄市は立派な詩人である。しかしだ、問題は私の方にいぜんとして残される。詩とはなんであるのか、という問いかけが。たぶん判っているのだ。書いたものを目の前に積み上げろ、と。積み上げた者のみの問いかけなのだと。見るまえに跳べ、ってことなのだ。だからこそ「季刊ぺらぺら」を出しているのだ。と、納得するような気分になる。まるで自分が地中に眠る不発弾になってしまったようだ。

 不発弾は思う。ことばは他人がいなければ存在しない。同じことだがひともまた他人がいなければ存在できない。毎日出会っている挨拶。ちょっとした会話にも、ほぐれない縄の結び目のようなあの底光りする「狂気の種」が確かに潜んでいる。そうではないか。だからこそその種が、なぜか発芽したとき「地獄とは他人のことだ」(サルトル)と叫ぶのだ。自分が異物であるような拭いがたい恐怖が閃光のように走る。息が詰まる。わたしは何者なのかわからない。つい過剰なコミュニケーションを試みてしまう。あるいは、闇のような沈黙のなかでじっと動かずにいる。恐怖が自然に失せるのを待つのだ。そして闇のなかの手が詩を書きはじめるのだろう。

 まだ私が小さな子供のころ、「ぼくは死ぬの?」と母親に訊ねたようだ。訊ねた憶えはないが、自分が確実に死ぬことを悟った記憶がある。きっかけがどのようなことか憶えはない。だが絶望の小さな種が確かに産まれたのである。その種は、中学生から高校生のある時期、自分の生が歪んだかのように、烈しく芽吹いた。暗い春のなかにいた。「生まれてきた以上は死んでいかねばならず、生きている限りは不幸から逃れることはできない、ということ以外に人間にとって確実なことは何もない」(クリティアス・断片)狭く深く疑問の螺旋階段をのぼりはじめたのだ。また自分の肉体が、それ以外のものではない窮屈さに、叫びのようなものが喉に刺さった。ことばを発することがわからなくなった。無口になった。ひどく怯えた雛のようだったのを憶えている。

 いまは日常の表層に浮かぶことばで詩がかかれることが多いようだ。しかし、あの「狂気の種」や「絶望の種」が見えてこない。このことには誰もが無関係であるはずがない、というのが私の確信である。もっとも二十数年まえの難解な現代詩の再来はごめんである。いく人かの詩人をのぞいて、すっかり現代詩が嫌いになってしまった。あれに比べればずっといいとは思う。おお、思わず私の傲慢がふくらんでしまった。軽い人間は、すぐ高みにのぼってしまう。心せねばなるまい。

 たぶんいまの時代には詩人の姿、あるいは詩人像がなぜかみえていない。もしかして、ひとは詩人を必要としなくなったのかもしれない。古代の詩人の姿とは、原始の言葉を憑かれたように発する巫女だっただろう。

 「シビュラ(神巫)は、狂つた口で、笑ひもなければ、飾りもなく、また滑らかさもない言葉を吐き(その聲をもって、よく千年の外に達しているが)、それは神によって語るからだ」・・・神意を神がかりにかたつた神巫の口から聞くことは、古代ギリシャ人の日常事であつた・・・(田中美知太郎訳・ヘラクレイトスの言葉)

※ 初出 『詩学』 1997年5月号。



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