Aug 08, 2005
詩をふたつアップ。
早速詩をふたつアップしてみた。一番最近のもの。ふたつとも傾向が違うのが一緒にアップした理由でしょうか。灰皿町を散策してみる。南川優子さんを見つけたので、訪問。イギリスの風景はいいなあ。料理がどれもうまそうである。文章もとてもよい。彼女の作品は、日本語の詩ではとても珍しく、英詩的なシンプルさとユーモアに満ちていて、とても好きである。今はバイリンガルで書かれていることも、初めて知った。ブラボー! 彼女の詩の故郷は明らかに日本ではなかったので、これは当然のことかもしれない。
以前、英語圏の人の前で、自作を英語で朗読する、というのをやったことがある。そのとき、英訳された自分の詩を見てまず思ったことは、「全然英語圏の詩じゃねえ~!」である。当たり前である。でも、本当に英語になって目の前にあると、俄然インパクトが違う。実際に朗読してみても、かなり場違いな感じであった。それはそれで面白かったのだけど。2次会で、訳してくださった人が「これはフランス語なら、たぶんきれいにキマるわよ」と淡々と語っていた。自分の詩のルーツを改めて知らされたときであった。
The afternoon after rain
1葉のひとしずくをともす、垂れたまま。それが雨後の午後の入り口なら、指先。迷わぬ舳先となって。far calls. coming, far ! ゆれる球体の彼方の呼び声に、帆を。小声の、草叢の、逆巻きに、この尖った両耳を。
2
割れたもの、砕けたものが友達だった。悪童どもの、秘密の夕方。トカゲの尻尾のように。本体は逃げ去り、生々しい記憶だけが、こぶしのなかでうごめいている。
3
土のなかの炎。そのありかを私は知っていた。ミミズの蝶結び。その苦しげな汁の傍らに。
4
芝の先に削りとられた頬の、かさぶたの下で。小声の歌が聞こえるよ。
5
足元を水が流れる、小さな雲が映って、ここにも空が。踏みしだきそうに、またいで、川に向かえ、空を宿した水の蛇をまたいで、川へ向かえ。その皮を脱ぎ捨てて、散りばめた風のうろこを脱ぎ捨てて、はだしの、祈りの、はだしの、祈りの。そこにも空が。
6
ゆれ動く水面が午前の入り口なら、踵。足元の空を踏み割って、切れぎれの地図にせよ。
7
地図を泳ぐ日々。決して重なりあわぬ、複数の地図が、混じり合ってしまったような。破片のなかを。それを縫い合わせては。破れやすい、生のテリトリーだと。思いがけない通行路が、階段が、不明な余白が。ありえない隣接が。耳をすませば、あるものだよ。
8
ポケットのキャラメルの包み紙が、君への置き手紙。細かくたたみこまれた夕日が。まだ指先で震えていて。
9
小声の歌が聞こえる。濡れた樹木の階梯を、のぼり、くだりして。二段飛ばし。踏み外し。跳躍と墜落の反復こそが、やがて土のなかの炎を掘り起こす。
10
おいで、しずく。固く折りたたんだ、地図と。小声の。すべてを、ここに。far calls. coming, far ! 応えるなら、草叢。それが入り口なら。脱ぎ捨てられた皮を、我が先行者として。主なき皮を、むしろまばゆい明かりとして。
初出「hotel第2章」no.13
interviews
interview井本節山
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「細いものを集めています。糸くずとか、針金とか、折れたピンとか。丁寧にビンに入れてしまってます。ラベルを貼って、箱に入れます。そうして戸棚の奥に隠しておきます。そのうちに忘れてしまいます。何かのきっかけで(たとえば、新しい綿の毛布をだすとか、もらい物のコーヒーカップを探すとか)、それを見つけます。箱を開けて、とても驚きます。なんてくだらないものばかり! なんのつもりでこんなものを! あまりにくだらないので、しげしげとひとつずつ眺めてしまいます。そうすると何か集めたときの欠片のようなものを、少しずつ思い出します。これはたぶん、春の日の夕方に、泣きそうでぼんやりしていたときに、会社の廊下で光っていたので拾ったもの、これは真冬に電車を降りたときに、前の人のコートについていたもの、手袋ではなかなか取れなくて、わざわざ手袋を脱いで、冷たい空気に指先を差し出して、こっそり取ったはず、など。何も思い出せないものもたくさんありますが、眺めていると、なぜか地図のように思えてきます。なんの脈絡もない、細いものたちをひとつずつたどりながら、私は確かにどこかにいたのだ、と不思議と改めて思います。」
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「小さい頃からピアノをやってたんで、絶対音感があるんです。人が話しているのとか、物音とか、聞けば全部譜面に起こせます。音楽はもう、ただの趣味ですけど、これだけはどうしようもないです。いいメロディで話す人がいます。何気なくもらす一言に、この短いモチーフがこの先どう展開するんだろうと、ぞくっとする人がいます。驚いて本人に聞くと、音楽なんてやったこともない、聴くのは好きだけど、楽器も弾けないし、歌うのもべつに好きじゃないって言うんですよ。当たり前なんですけどね、意識してやってるわけじゃないから。楽曲はどんなものでも構造を持ってます。ある短いモチーフがあって、それがいろいろな形に変形しながら、旋律が形成され、反復がつくられ、構造があらわれます。営業の仕事で外回りをしてるときに、マックとかで遅い昼を食べながら、人の声に耳を傾けてると、そこに無数の音楽の小さな破片が偏在してます。それが楽曲として発展することは絶対に無いんですけど、それでも小さな種のように、私のまわりに、無数に散らばっているのです。ときおり、とてつもない幸福感に襲われることがありますよ。今、楽園にいるんじゃないかって。いいものも、ダメなものもあるけど、数知れぬ音楽の種たちが、今、自分の力にそって、何の屈託なく呼び交わしているぞって。やがて私のなかの、知らない種までも、つられて、ついに目を覚まして、一緒に歌いだすんじゃないかって。」
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「特に何もないけど、匂いを嗅ぐのが好きです。家に帰るとまず、寝ている子どもの匂いを嗅いでますね。匂いを嗅ぐと今日何をしていたか、大体わかるんです。そう、お風呂に入ったあとでも。手から粘土の匂いがしたり、短い髪から草の匂いがしたり。子どもって、すぐ匂いがつきますね。何ででしょう? 時間をいっぱい吸い込んでるんですかね? 不思議と匂いって忘れないものでしょ。付き合った人の匂いって覚えてるじゃないですか。抽象的な意味じゃなくて。香水とかシャンプーとか汗とか。妻と結婚したのは、全然匂いがしなかったからです。そこだけ、ひっそりしてるみたいに、何の匂いもしなかった。どんな記憶とも結びつかないんですよ。ただ、やわらかな体温のその人と今だけがあるって感じで。匂いは時間ですから。一緒にいるときは時間の外にいたのかもしれませんね。私はたぶん、それを望んでいたんですよ。」
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「何かに触って、手触りを感じることが、とても不思議に思えることがあります。たとえば、ケヤキの木の幹のざらざら、椿の固くて、肉厚な葉の、つるりとした冷たさ。夏の午後、台所の蛇口から出るぬるい水。水に沈んだコップの少しやわらかい手触り。それが気に入ると、目を閉じて、もう一度触ってしまう。そうすると世界は不確かな気配になって、暗がりのなか、手触りだけが、私をつなぎとめている気がします。私が触っているのか。それとも私が触られているのか。そんな危うい先端になって、しばらくじっとしてる時間が好きです。飽きてくると、また目を開けます。光と距離がどっと流れ込んできて、すべては確かさを取り戻す。なんとなくほっとして、手を拭いて、外に出かけます。歩きながら指先で押さえる、かばんの粗い布の目。半そでの腕を触る暖かい空気。私が触っている? それとも? 人と会っているときも、そんなことを考えていることがあります。話をしながら、ふと相手に触れてみたくなる。手の甲とか、持っているカップとか、シャツのボタンとか。私は待っているのかもしれない、と思います。あの暗がりの向こうの何かが、不確かな不安に耐えながら、今度は私におずおずと手を伸ばしてくるのを。」
初出「W3」創刊準備号