Sep 25, 2005
エッセイをひとつ追加。
アップしたのは、去年(?)「長帽子」に出したもの。5年前、子どもが生まれるので、妻の実家のそばに引っ越してきた。ここらは高度成長期に栄えた工場町で、新興住宅地を転々としてきた私には、いろいろなものが新鮮だった。写真をめぐるエッセイは、「長帽子」の編集後記とかで、ぽつぽつだしていた。継続的に書いていた(る?)『ダゲレオ式』なる詩も、写真がテーマである。そんなに写真が好きかというと、それほどでもない。
ただ、時間と記憶というテーマを、とてもプライベートな領域で保持しているので、面白い。身近だし。
実は近々また引越をする。道路を挟んだ向こう側に移動するだけなのだけど、部屋の整理が大変である。 色々掘り起こしているうちに、この5年分のさまざまなものが発掘された。
発掘された物件を見ながら、しばらく呆然としたのである。「この5年間、何をやっていたのだろう!」と。 くわしいことは避けるが、とにかく驚いたのである。
それはそうと、引越にあたって、突然、上の子がデジカメで家のなかの風景を撮り始めた。本人になぜかを聞くと、「忘れないように」と言う。
で、ふとこのエッセイの存在を思い出したのである。タイトルは伊藤静雄の詩からとった。彼の詩をまた読み返してみたのだけど、時間と記憶について、本当に鋭い、ブラボーを詩を書いている。ドイツの詩が好きだったはずと記憶しているが、こうした意識は、どちらかと言えば、フランス寄りだった「四季」の書き手にはなかっただろう。
このエッセイと近いことを、最近考えているので、それでまた、なんか書くかもしれない。
むしろその日がわたしの今日の日を歌う
今年は妻の実家の近くにある神社で四年に一度の本祭りがあった。ネジ工場を営む実家は、御神輿や山車の休憩所になっているらしく、前日からあわただしい。朝は八時半から始まるけど、紐はもらっておくから、ゆっくり来ていいわよ、とばあちゃんは言う。紐があれば途中から山車に入っても、ちゃんとお菓子がもらえるからね。この辺りは妻の実家のように、金型や機械部品などを作る小さな工場が多い。朝、会社に行くとき、どの工場も大きく扉を開け放って、作業服を着た人たちがもう働いている。小さな金属の切り屑が油に濡れたままきらきらと床に散らばっている。この辺も昭和三〇年から四〇年代頃は大変な隆盛で、人も多く、当時は映画館が三つもあった、とじいちゃんはいう。そりゃあんた、夕方の商店街なんて、人がいっぱいで歩けないぐらいだったんだから。だんだん減ってきちゃったんだよ、商売が成り立たなくなって。ここらはみんな孫請けみたいなもんなんだから。親が苦しくなって値段叩かれちゃたら、やってなんかいられないんだよ。
道路と線路と川に区切られたこの辺りに、長く住んでいる人が多いからだろう、行事にはとても熱心だ。まわりには小さな神社がいくつもあり、普段はぱっとしないが初詣には御神酒と夜番を欠かさないほど賑わう。もちろん祭りでも。どの家にも神棚があり、真新しい水が添えられている。それは商売をしている家が多いからだろうが、生まれてこの方、借家を転々としてきたよそ者の私にはとても新鮮である。
妻は朝からうきうきとしている。おにぎりを作って、子どもと山車の後をついてゆくのだ。本祭りは四年に一度だから、特別なの。昔から楽しみなのよ。他の年は御神輿も出ないし、縁日もひっそりとしているの。そう言いながら、借りてきた小さな法被を子どもに着せて、町会を示す色の付いた紐を括ってやる。
山車は早朝から出ている。後から追いかけて、果物屋の裏でようやく捕まえた。色とりどりの紐をつけた子供たちが山車の綱のまわりにいる。そのまわりに子どもの親たちがもうひとまわり取り囲んでいる。山車をみて驚いた。太鼓が異様に大きいのだ。大人の背丈ほど、という訳ではないが、大きな小学生の背丈ほどはゆうにある。私が幼年を過ごした町の太鼓はもっと小さかったし、よその町でたまたま見かけたのも同じようなものだった。あっけにとられて見上げていると、これは当時の御神輿の予算をみんなつっこんだんですよ、と町会の人が自慢げに説明しているのが聞こえてきた。胴の部分に「昭和五年九月吉日」と彫り込んであり、確かに立派なものだ。叩くとどんと腹に響く見事な音がする。ただ、大きいだけにバチも太くて長く、とても子どもには扱えそうもない。そればかりか山車の上をほとんど占領してしまっていて、叩く子どもの乗る場所が空いていない。みな下からよろよろと手を伸ばして、太鼓を叩いている。
山車が出発する。空いたところに子どもを連れていき、綱をつかませる。太鼓の音がゆっくりと響いてくる。綱が持ち上がり、ゆっくりと進む。日差しは強く、おだやかな風が吹いている。初夏の、快晴の日。鉢植えの草花の葉がてんでにゆれている。太鼓の音がなにかを払うかのように、大きく、狭い路地に響き渡る。この子は小さな手で綱を握りしめている。楽しげに笑って、おいしょ、おいしょと呟きながら、綱を引っ張っている。何か愉快なことが起こっているのだ。おいしょ、おいしょ。
私の祖母の家はここから川向こうにあって、やはり小さな工場が隣接するところにあった。隣は小型のトランスを作る工場、向かいは金属片の型抜きをする工場で、日曜以外は始終がちゃがちゃと物音がしていた。一枚の写真が手元にある。二、三歳の私が、祭りの法被を着て、いまはもう壊してしまった祖母の家の玄関にいる。カメラを真剣にじっと見ながらも、何か楽しさを隠しきれないような顔をしている。おとなしくしているが、楽しくて身がはち切れそうで、今にも走り出したい表情だ。
まだ子どもが生まれる前、妻がじっとその写真をみつめていたことがある。ほとんど声をかけるのがためらわれるぐらい、じっと見入っているのだ。振り返ると、やはり少し泣いている。どうしたの、と聞くと、この子はどんな声で笑うんだろう? 何が好きで、どうしたら喜ぶんだろう? そう考えてたら、なんか悲しくなって。この子はケチャップが好きで、こたつのなかに隠れてはケチャップをなめていたよ。妻はくすっと笑いながら、手で目元を拭った。ねえ、こんな時間って一瞬で過ぎちゃうんだね。本当にこの子が大きくなって、こんな大人になるの。信じられないよね。
私は少し離れて、首からぶら下げたカメラを構えた。大きな綱を掴みながら、この子も笑っている。シャッターを切った。この写真は一体誰が見るのだろう。この町で大きくなったこの子が、この写真を不思議がるために? もうこの子にはわからないだろうこの日を、先回りして、この子に残しておくために? この子の知らない生の記憶を、こうして記録してゆくことの不思議さ。大きくなったこの子がこの写真を見たときに、それはノスタルジーを越えて、もはや別の時間を生きていたことの証となるのだろう。生の断層。私たちは無数の時間を蓄積しながら、それをくり貫くように、今の現在を生きてゆく。語られる記憶とは、ふとしたきっかけであらわになって、風雨に洗い流された生々しい地層である。時には止めどもない流出となって、現在に流れ込んでは、固有の、かけがえのない生の手触りを残してゆく。喜びであれ、悲しみであれ、それを「豊饒」と呼ばずしてなんであろうか?
初出「長帽子」
Aug 08, 2005
詩をふたつアップ。
早速詩をふたつアップしてみた。一番最近のもの。ふたつとも傾向が違うのが一緒にアップした理由でしょうか。灰皿町を散策してみる。南川優子さんを見つけたので、訪問。イギリスの風景はいいなあ。料理がどれもうまそうである。文章もとてもよい。彼女の作品は、日本語の詩ではとても珍しく、英詩的なシンプルさとユーモアに満ちていて、とても好きである。今はバイリンガルで書かれていることも、初めて知った。ブラボー! 彼女の詩の故郷は明らかに日本ではなかったので、これは当然のことかもしれない。
以前、英語圏の人の前で、自作を英語で朗読する、というのをやったことがある。そのとき、英訳された自分の詩を見てまず思ったことは、「全然英語圏の詩じゃねえ~!」である。当たり前である。でも、本当に英語になって目の前にあると、俄然インパクトが違う。実際に朗読してみても、かなり場違いな感じであった。それはそれで面白かったのだけど。2次会で、訳してくださった人が「これはフランス語なら、たぶんきれいにキマるわよ」と淡々と語っていた。自分の詩のルーツを改めて知らされたときであった。
The afternoon after rain
1葉のひとしずくをともす、垂れたまま。それが雨後の午後の入り口なら、指先。迷わぬ舳先となって。far calls. coming, far ! ゆれる球体の彼方の呼び声に、帆を。小声の、草叢の、逆巻きに、この尖った両耳を。
2
割れたもの、砕けたものが友達だった。悪童どもの、秘密の夕方。トカゲの尻尾のように。本体は逃げ去り、生々しい記憶だけが、こぶしのなかでうごめいている。
3
土のなかの炎。そのありかを私は知っていた。ミミズの蝶結び。その苦しげな汁の傍らに。
4
芝の先に削りとられた頬の、かさぶたの下で。小声の歌が聞こえるよ。
5
足元を水が流れる、小さな雲が映って、ここにも空が。踏みしだきそうに、またいで、川に向かえ、空を宿した水の蛇をまたいで、川へ向かえ。その皮を脱ぎ捨てて、散りばめた風のうろこを脱ぎ捨てて、はだしの、祈りの、はだしの、祈りの。そこにも空が。
6
ゆれ動く水面が午前の入り口なら、踵。足元の空を踏み割って、切れぎれの地図にせよ。
7
地図を泳ぐ日々。決して重なりあわぬ、複数の地図が、混じり合ってしまったような。破片のなかを。それを縫い合わせては。破れやすい、生のテリトリーだと。思いがけない通行路が、階段が、不明な余白が。ありえない隣接が。耳をすませば、あるものだよ。
8
ポケットのキャラメルの包み紙が、君への置き手紙。細かくたたみこまれた夕日が。まだ指先で震えていて。
9
小声の歌が聞こえる。濡れた樹木の階梯を、のぼり、くだりして。二段飛ばし。踏み外し。跳躍と墜落の反復こそが、やがて土のなかの炎を掘り起こす。
10
おいで、しずく。固く折りたたんだ、地図と。小声の。すべてを、ここに。far calls. coming, far ! 応えるなら、草叢。それが入り口なら。脱ぎ捨てられた皮を、我が先行者として。主なき皮を、むしろまばゆい明かりとして。
初出「hotel第2章」no.13
interviews
interview井本節山
*
「細いものを集めています。糸くずとか、針金とか、折れたピンとか。丁寧にビンに入れてしまってます。ラベルを貼って、箱に入れます。そうして戸棚の奥に隠しておきます。そのうちに忘れてしまいます。何かのきっかけで(たとえば、新しい綿の毛布をだすとか、もらい物のコーヒーカップを探すとか)、それを見つけます。箱を開けて、とても驚きます。なんてくだらないものばかり! なんのつもりでこんなものを! あまりにくだらないので、しげしげとひとつずつ眺めてしまいます。そうすると何か集めたときの欠片のようなものを、少しずつ思い出します。これはたぶん、春の日の夕方に、泣きそうでぼんやりしていたときに、会社の廊下で光っていたので拾ったもの、これは真冬に電車を降りたときに、前の人のコートについていたもの、手袋ではなかなか取れなくて、わざわざ手袋を脱いで、冷たい空気に指先を差し出して、こっそり取ったはず、など。何も思い出せないものもたくさんありますが、眺めていると、なぜか地図のように思えてきます。なんの脈絡もない、細いものたちをひとつずつたどりながら、私は確かにどこかにいたのだ、と不思議と改めて思います。」
*
「小さい頃からピアノをやってたんで、絶対音感があるんです。人が話しているのとか、物音とか、聞けば全部譜面に起こせます。音楽はもう、ただの趣味ですけど、これだけはどうしようもないです。いいメロディで話す人がいます。何気なくもらす一言に、この短いモチーフがこの先どう展開するんだろうと、ぞくっとする人がいます。驚いて本人に聞くと、音楽なんてやったこともない、聴くのは好きだけど、楽器も弾けないし、歌うのもべつに好きじゃないって言うんですよ。当たり前なんですけどね、意識してやってるわけじゃないから。楽曲はどんなものでも構造を持ってます。ある短いモチーフがあって、それがいろいろな形に変形しながら、旋律が形成され、反復がつくられ、構造があらわれます。営業の仕事で外回りをしてるときに、マックとかで遅い昼を食べながら、人の声に耳を傾けてると、そこに無数の音楽の小さな破片が偏在してます。それが楽曲として発展することは絶対に無いんですけど、それでも小さな種のように、私のまわりに、無数に散らばっているのです。ときおり、とてつもない幸福感に襲われることがありますよ。今、楽園にいるんじゃないかって。いいものも、ダメなものもあるけど、数知れぬ音楽の種たちが、今、自分の力にそって、何の屈託なく呼び交わしているぞって。やがて私のなかの、知らない種までも、つられて、ついに目を覚まして、一緒に歌いだすんじゃないかって。」
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「特に何もないけど、匂いを嗅ぐのが好きです。家に帰るとまず、寝ている子どもの匂いを嗅いでますね。匂いを嗅ぐと今日何をしていたか、大体わかるんです。そう、お風呂に入ったあとでも。手から粘土の匂いがしたり、短い髪から草の匂いがしたり。子どもって、すぐ匂いがつきますね。何ででしょう? 時間をいっぱい吸い込んでるんですかね? 不思議と匂いって忘れないものでしょ。付き合った人の匂いって覚えてるじゃないですか。抽象的な意味じゃなくて。香水とかシャンプーとか汗とか。妻と結婚したのは、全然匂いがしなかったからです。そこだけ、ひっそりしてるみたいに、何の匂いもしなかった。どんな記憶とも結びつかないんですよ。ただ、やわらかな体温のその人と今だけがあるって感じで。匂いは時間ですから。一緒にいるときは時間の外にいたのかもしれませんね。私はたぶん、それを望んでいたんですよ。」
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「何かに触って、手触りを感じることが、とても不思議に思えることがあります。たとえば、ケヤキの木の幹のざらざら、椿の固くて、肉厚な葉の、つるりとした冷たさ。夏の午後、台所の蛇口から出るぬるい水。水に沈んだコップの少しやわらかい手触り。それが気に入ると、目を閉じて、もう一度触ってしまう。そうすると世界は不確かな気配になって、暗がりのなか、手触りだけが、私をつなぎとめている気がします。私が触っているのか。それとも私が触られているのか。そんな危うい先端になって、しばらくじっとしてる時間が好きです。飽きてくると、また目を開けます。光と距離がどっと流れ込んできて、すべては確かさを取り戻す。なんとなくほっとして、手を拭いて、外に出かけます。歩きながら指先で押さえる、かばんの粗い布の目。半そでの腕を触る暖かい空気。私が触っている? それとも? 人と会っているときも、そんなことを考えていることがあります。話をしながら、ふと相手に触れてみたくなる。手の甲とか、持っているカップとか、シャツのボタンとか。私は待っているのかもしれない、と思います。あの暗がりの向こうの何かが、不確かな不安に耐えながら、今度は私におずおずと手を伸ばしてくるのを。」
初出「W3」創刊準備号
Jul 26, 2005
Jul 25, 2005
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