Nov 01, 2005

全集の欠本。

宮沢賢治全集をとりに、自宅へ行く。
弟が入居するにあたって、新設した倉庫のなかにある。
邪魔者扱いは嫌だといつも思うのだが、狭いのでしかたがあるまい。
10巻を取りに入って、欠本があるのに気づいた。
あるいは、ダンボールが別なのか。
全集の欠本は許せない。
日を改めて絶対、整理をする。
わずかだけれど倉庫の中には、サイン入りの本や、もう入手できない全集もある。
本はあまり読まないのだけれど、こういう状態を見ると「欲」がわく。
もう一生読まないのだろうか。
わたしは蔵書家ではなく、ずいぶん寄付などもしたのだが、悋気なので高価な本はあげずにある。
たとえば友人の誰の家にもある、ヘルマン・ブロッホの「希望の原理」とか・・・(笑
ミシェル・フーコーは偉かった。
その師匠の、フィリップ・アリエスもさらに。
そこで、脳みそがちぎれた。
図書館で終日、重い本と向き合い、休み時間にも本を読まされたら脳みそはちぎれる。
まじめに思ったことは、シモーヌ・ヴェイユだって8時間労働だぞ!
わたしは学者ではないとはいえ、シモーヌよりきつい仕事をしているのだと・・・・。
以来、本といえば「帰化植物図鑑」とか、シーボルトの画集とか、椿の図鑑が愛読書だ。
後遺症はまだ続いている。
集中力がないうえに、眼が悪くなっているので、もう一生読まないかもしれない。
「校本宮沢賢治全集」は、発刊された時に買った。
今日その歳月がつけた、黄ばみに傷ついた。
貴重な「トーマス・マン」全集も、もう開かないのかな~。やっぱりおいしい、母の栗ごはん
Posted at 18:16 in n/a | WriteBacks (0) | Edit
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