Jan 27, 2007
石田徹也
今日は2005年に不慮の事故により31歳の若さで亡くなった画家石田徹也を。去年、書店でこの人の遺作集を見たときには衝撃を受け、すぐに買い求めました。
「新日曜美術館」などでも特集していましたので、ご覧になった方も多いのでは。
油絵の具で現代社会生活の一角を緻密に描写するその作品に出てくる人物はすべて同一人物、
しかも何人出てきても、女性であっても男性であっても、大人であっても子供であっても、
全て同じ顔をしています。
その人物は、大概何かしらの無機物と同化していて、無表情に虚を見つめています。
あるときは蛇口と同化して涙を流し、またあるときは顕微鏡に同化して、
同じ顔のクラスメートと一緒に授業を受けています。
他にも机、便器、遊園地の遊戯具、ミシン、コタツなどと同化、
また四角い梱包物となって満員電車で運ばれていたり、
ダンゴ虫の殻の中で安らかに眠っていたりします。
その画面全体には、どうしようもなく哀しみが広がっていて、
滲み出す苦痛が、強烈に見る者の心を掴んで離しません。
文章でこの世界を解き明かそうとするのは無意味であるように思いますが、
この社会という場はある一面、どうしようもなく無機物的であり、そこで生きることは、
それに同化して自らも無機物となって社会を構成する一部となること。
社会性を持つ人間という生き物はそれを許容するように出来ているのかもしれませんが、
しかし人間だからこそ、そこにやるせなくも強い哀しみを抱くものだと思います。
石田はそういった現代人が押し隠している哀しみを、えぐり出してキャンバスに開放しているようです。
一見その作風から、非常に個人的な世界が描かれているように見える石田作品、
描かれている顔も石田本人の自画像であると思いがちですが、
石田自身の言葉によると、これは自画像ではないということ。
確かに写真で見る石田本人の顔は、描かれている顔と大分違います。
思うにこの顔は、石田を含めたすべての現代人が持っている共通の顔なのではないでしょうか。
そういえば、初めて見たときから、なんとなく見覚えがあるように思える顔です。
その顔は、何かを見つめることを拒み、ただひたすらそこに存在することに耐えているように見える。
社会で生きるときに持つことを義務付けられるひとつの顔、それを繰り返し描くことにより、
現代社会において激烈なまでに隔絶された孤独と孤独とのコミュニケーションを望んだのが、
石田徹也の芸術なのかもしれません。
やはり文章で書いてもぱっとしませんね。
石田徹也の作品は見て感じる、ただそれだけで十分、それが全てであるという気がします。
というわけで、まだ未見の方は、ぜひご覧になってみてくださいな。
「石田徹也遺作集」(求龍堂)
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