Jun 11, 2006
昨日の夜はW杯の
ドイツ対コスタリカを見てました。あまりサッカーを観戦しない私でも、
ドイツの選手が放つシュートが凄いことはわかりました。
なんとかという選手が打ったミドルシュートはデイフェンダーをすり抜け、
ポストをかすめつつ右上一杯に弾丸のように突き刺さる。
別にドイツを応援しているわけではないのに、
シュートを打った選手を知っているわけでもないのに、
「おお、すげえ!」と思わず唸ってしまいました。
うーん、華がありますね、やっぱり。
ド素人が見ても、はっきりと凄いことをやっているとわかること、
これがプロとアマの違いじゃないでしょうか。
ぱっと見「俺でもできんじゃねえかな」
と思えてしまうプレイでは、見る人は食いつきません。
世界中探しても、この人しかできないんじゃないか、と思えるようなプレイを見たときに、
人は心を奪われて「また見たい」と思うのではないでしょうか。
野球のイチローや松井、野茂や佐々木にしても、
大リーグで誰よりもたくさんヒットを打つ。
大リーグのピッチャーからホームランをかっとばす。
大リーグの強打者相手に三振をたくさん奪う。
と非常にわかりやすく凄いです。
野球を全く知らない人が見ても、はっきり凄いことがわかります。
バント職人や、中継ぎ投手、堅実な守りをこなすショートなども、
勿論素晴らしいですが、見る人の目がそこまで到達するには、
まず、わかりやすく凄い活躍をする選手がいてこそだと思います。
Jリーグや日本のプロ野球の人気が、一時期よりも陰りを見せているというのも、
華のある選手がいなくなってしまったことが、原因のひとつではないでしょうか。
スポーツだけでなく、小説を読んでいたり、音楽を聴いていたりするときも、
同じようなことを思います。
こんな歌い方を出来る人は他にいない、こんな文章書ける人はこの人しかいない、
そう思わせる技量を持った表現者が、まず人を惹きつけるのだと思いますし、
鑑賞者がそのジャンルにのめりこむきっかけを作るのだと思います。
もちろん華だけではすぐに飽きられてしまいますから、奥深さも必要ではありますが、
もとより華々しさとは、奥深さからしか生まれないような気もします。
その点、詩は随分華に欠けているような…。
一般的に詩を読んだ人の感想は、「なんか俺でも簡単に書けそう」であるような気がします。
難解な詩に関しての感想は「適当に思いついた言葉ずらずら並べてるだけじゃねえの」
ではないかと思います。
そう思ってしまうと、更に読もうという気は起きませんし、
自分にも簡単に書けそうな気がするものを、
わざわざお金を出して買って読む人は少ないと思います。
実際に書ける書けないは別にしても、そういう風に見えてしまうのは、
やっぱり華に欠けるからなのだと思います。
しっかり読めば、無限の世界が広がっていく詩もありますが、
入り口がなければ、入っていくことも出来ないのではないでしょうか。
石垣りんさんや茨木のり子さんの詩集は、
他の詩人の詩集よりも売れていると思います。
売れる理由は、言葉がわかり易いということもあるでしょうが、
お二方の作品に接した多くの人が
「この詩句は誰にでも書けるものではない」と直感したからではないでしょうか。
ド素人でも、凄いことをやっていることがわかる詩です。
谷川俊太郎さんもそうかもしれません。
いま難解な詩を読んだり書いたりしている人も、
その入り口は谷川俊太郎だった、という人も多いはずです。
上に挙げたお三方の詩は、現代詩では軽く見られる傾向があると思いますが、
こういう華を持った書き手がいなければ、
一般から現代詩への入り口は閉ざされてしまい、
そして現在、彼らの役割をする人が現代詩には見当たるかというと、
その技量を持っている人は思い当たりますが、
正当に評価はされていないと思います。
先鋭的で読む人を限定する詩も必要かとは思いますが、
W杯級選手のシュートのようにわかり易く凄い詩が、
現在最も必要とされているのではないでしょうか。
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