Aug 28, 2007
宗教・神話・詩論
大木重雄詩集『山谷堀寸描』寸感 ――わたしが消えれば その記憶も消えるのだ大木重雄さんとはいつのころよりか、消息を交わす間柄となった。私よりお年嵩というも愚かな、この謎にみちた「La Vie」上の先達で、おたよりの筆跡から推して、鶴のような方、と、勝手に思いなしている。電話で話したことや、お会いしたことはない。歌舞伎が尋常の好きの域を越えていて、推理小説フリークとおぼしく、銭湯や居酒屋に目がなく、見知らぬ街をわけもなくさまよう趣味があり、少しミザントロープ(人間嫌い)の気があって、女色に潔癖、厭世や皮肉の色も交じり、しかも肉が苦手、英語がご専門なのになぜだかフランス語に熱中して斯界に堪能、また音楽(クラシック)なくしては夜が明けない趣味人の、なによりも江戸っ子であると、こう書いてゆくと、酒のご趣味を除いてはまるで岡本綺堂見たような人ではある。ここに詩や文芸の嗜好を加えないのは、詩人にとって詩が趣味ではありえない事情と軌を一にしている。この「索」誌上に十五回の連載を先号で完結された『回想の牧章造』を、はじめから拝読してきた(息をつめるようにして)身としては、敗戦後すぐの学生時代から現在に至るまでの六十年余、詩や小説を書き、発表してきた大木さんに、翻訳書のほか、一冊の作品集もないというのはまことに意外なことで、しかしひるがえって、実に容易く詩集などが出版される昨今を勘案するに、このことは含羞深い大木さんの持つ謙譲という名の気高さと、かつての出版界のむしろ健全さとを思うべきなのかも知れない。
その大木さんが詩集を出された。ご自身は「パンフレット」と謙遜されるが、さきほどのお人柄の形容に従えば、鶴の羽のような印象の清潔簡素な詩集である。Ⅰ部とⅡ部に分かれ、Ⅰ部は五つの詩篇とあいだにはさまったインテルメッツォとも言わんかの四つの散文、Ⅱ部は百十三行の長詩、という組み合わせから成っている。わずかずつの内容の違いによって構成されてあるようだが、かえりみればすべてが山谷堀を中心とするひとつの幻影と、そこが絶対的に失われることの契機となった昭和二十年三月十日の東京大空襲を深い角度で指し示す、いわば「おなじつらなる」品々と見てさしつかえない。それにしてもここにひろがる寂しい明るさはなんということだろう。その寂しさには一切の湿り気というものが存在しない。そしてここにある、私が読んでも感じられる不思議な懐かしさは、山谷堀で大木さんが過ごした少年時代の具体的な物事や出来事のあれこれについての共感覚というよりは、詩人がそれらのことどもを捉えるアプリオリな視線や手つきの中にその秘密が隠されているような気がする。いわばその懐かしさは永遠のほうからやって来る。
とはいえ、表紙の装丁の戦前の地図や本文中に出現する、吉野町、今戸町、待乳山聖天、象潟署、吉原病院、馬道等々の名辞に、息を呑むような濃密な思い出に似たものを思わずも覚えてしまうのは、若年のかつて、意外に深入りした江戸趣味や、戦前の小説、ことに鴎外綺堂荷風、夷斎石川淳などの卒読の記憶が暮れ残っているせいかもしれない。
詩集を披くのっけから、ダガバジジンギヂ老の「留守じゃ 留守じゃ」の、座禅で言えば十棒ほどを振舞われることになる(「待乳山聖天」)。声はするが(無い声を聞いたのかもしれない)老はどこにもいない。「小高い境内には誰もいな」くて「堀そのものがすでに消え」ている。この作の中で「いくさ」という言葉はたった一か所。「立ちすくむわたしも/生き永らえた誰かの夢かもしれない」という、詩集全体の結論のような言葉がすでにして劈頭に提示されているのを見て、「あとがき」にいう「幻想レクイエム」の意味するところが、なんとなく感得された気が私にはした。「いくさ」の紅蓮をレテの河のように隔てて、ここには生起し、展開し、終末に流れるといった性格の「時間」が存在しないのだ。永遠とも、無時間と言っても同じことだが、「わたしが消えれば その記憶も消える」(「山谷堀尋常小学校」)他人が見る夢のごときもの、誰でもがそうであるひとりぼっちという青い虚空がひろがっているばかりなのだ。「地上とは思い出ならずや」(稲垣足穂)とは大木さんがつねづね好む言葉である。老や聖天社や「いくさが裂いた男」に会うためには、切ないことに「五億年」ほど経ってから出直すしかない(高橋新吉「るす」による)。
そういえば、私がみずからの病について触れた詩集をお送りして、その感想をいただいた折、他の作品については大いに書いていただいたのが、病に関するところについては、お互い明日はどうなる身とも知れないのだし、このことについてはまあ余り話すのも野暮なことという意味の文言をいただいた。そのときはご高齢であることと足がお悪いことなどから来た言葉なのかと生半可に納得したが、じぶん自身に病から生還したことの意味とその恐ろしさの実感が徐々にやって来て、この詩集の真のテーマである三月十日の大木さんの体験と、みずからのそれを重ね合わせたとき、大木さんがどんな風にこの世を眺めているか、その眼にこの世界がどう映っているか、判ったような瞬間があって、肌が粟立った。大木さんは本誌三十九号に載った『回想の牧章造』(十二)で、原民喜の『夏の花』の部分を引き、その「死者の眼」による原爆投下直後の惨状描写を「作品が閉じている」として批判されている。大木さんは自ら進んで思想詩や原爆詩を書くという発想は、いままでもこれからも決して持たれないだろう。それらは多分大木さんにとっての「詩」になじむテーマではない。さっき三月十日が真のテーマと言ったが、集中それの具体的な描写は一切無いと言ってよい(Ⅰ部の「赤門寺跡」と、さいごの「むせる新聞」にその気配はあり、ことに「むせる新聞」には最も激しいアクチュアリティの表出がある)。具体的な描写はないけれど、しかしコンパスの針のように集中のすべての表現の指向性は三月十日という極北にむかって常に震えているのであって、やはり戦後の大木さんには「死者の眼」がどこかにつきまとう印象がある。けれどそれは他者に向けられた虚無という形をとらず、自らを限りなく相対化するまなざしという形をとる。思えばその含羞も謙虚さも、少しの皮肉と清潔な寂しさも、三月十日体験という格子(グリッド)を通すことによって、ああそういうことなのかと私には大きに腑に落ちるところがあるのだ。そんな大木さんが、譬えは悪いが斎藤別当のように老骨に鞭打って、けれど恋文のようなひめやかさも伴って、書置きみたいにこの『山谷堀寸描』という「戦争詩集」を出されたのだと私は理解している。
「戦(いくさ)が緋のマントにくるんで持ち去った」(「山谷堀寸描」)慕わしい他界に似た界隈と生活。四歳で逝った音楽の精霊のような弟、「島牛乳会社」の煙突、「オビシャ」(お毘沙)の甘茶(「正法寺」)、「埃まみれに眠る薬種屋」の小さな河童の格好をしたウオーター・ボーイ(「泪橋」)、戦前の下町にあった月見の習俗(「中秋」)……。「時」に堰をもうけることなどできず、十万虚空は悉皆消殞して、戦前の生活と風景だけが細やかで非現実的な蒔絵の図柄のようにひとりぼっちの幻想として残される。その光景が寂しければ寂しいほど、大木さんにばかりではなく私たちの眼にも、鋭い慰藉と甘さを湛えて映るのは、大きな何かが壊滅した後のような、そんな「現在」に対するわれわれの深い絶望感と、多分無縁ではない。
詩集のさいごに大木さんとおぼしき白襟の小学生の写真の一葉を見るが、お会いしたことのない大木さんの想像の風采とあまりに一致していたのには、ふたたび肌が粟立った。
「索」43号(終刊号、2007・5・31)所収
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