Jul 12, 2007
宗教・神話・詩論
あるキリスト者への返信前略 お礼がこのように遅くなってしまったこと、ならびにワープロ文字で申し訳ありません。御高著二冊、ことのほか『詩とレリギオ』、強い感銘をもって読み終わりました。「詩的混沌」「鎮魂」ということ、「神みずからは笑いたもう」など、大きな共感を覚えます(美しく飾られた宇宙というイメージの何と豊饒なこと!)。
吉本隆明のヴェーユ理解に関しては昔から私も疑問を感じていたので、彼がまったくそうであるというのではありませんが、やはりアクティビズム的な近代性からヴェーユそのひとを理解することは出来ないのだと、(かねて思っていたとおり)納得させられました。彼女を被虐的な、あるいは加虐的な心理類型から語ったとしても、それは何事も言っていないのに等しいことで、私はそのような人が存在すると知るだけで、この世界に畏怖に近い感情を覚えます。神の問題を本質的には避けながら、神を客観的に語るという愚を多くの人間は犯しがちです。
同じことですが、奇跡については私も多く思考の時間を割いてきました。結論ではないのですが、それについてあれこれ証明や説明をしようとしても、人間の相対性(ヒトに限界があるということ)のうちに揉み消えてしまうものなのではないでしょうか。私というものがいまここにいて、何かを考えたり、落ちた消しゴムを拾ってみたり、ウイスキーの一滴を口に含んだりしていることは、奇跡とはいえないでしょうか。ドイツ語で何というのか存じませんが、確かニーチェの言に「ある現象の証明は出来るが、それを説明することは出来ない」というのがあります。超自然(ヒトにとっての)は、自然という偉大な事実のうちの小さな一項目にすぎないと私は思います。
さいごに、イエスのことをこんなに豊かに示されたことは、私にはあまり経験がありません。ガリラヤの昼下がりの、葡萄の葉陰にみちた静かな時間を、御著の記述に芳醇な酒のように感じたと申したら敬虔さを欠くでしょうか。ランゲヴァイレ(長き冗長な時)ということばの滋味とともに、また喜びとともに味わわせていただきました。送らずもがなの拙文を同封して、お礼申し上げます。不尽
2003年12月12日 倉田良成
今駒泰成様
今駒泰成著『詩とレリギオ』感想(「鮫」97、2004年春号所収)
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