Apr 21, 2008
長谷川四郎訳カフカ傑作短編集より『彼』
彼がさからって泳いでいる流れはたいへん急なので、ときどき、ふとぼんやりしたりすると、彼は空々寂々たる静けさの中で水をはねかえしていて、その静けさに絶望するのである。彼が一瞬断念したあいだに、それほど果てしもなく遠く、彼はあとへ流されていたのである。(『彼』の中の一節-カフカ傑作短編集長谷川四郎訳福武文庫1988より)
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私が20代ヤノーホの『カフカとの対話』やカフカの短編集・手紙には救われる思いがした。
池内紀さんの翻訳は読みやすかった。『カフカとの対話』の訳者吉田氏もよいと思う。しかし優れた文学者で翻訳者の長谷川四郎は、カフカの体温をつかんでいるのではないかと思わせる部分がある。
流れが急なことと「空々寂々たる静けさ」は矛盾しない。また自分の居場所がわからなくなり所在を失っている。にもかかわらずその所在のなさを逆に穿つ執拗さは諦念スレスレである。どこだろう、ここはなんだろうという問いを身に引き受け、そこから生ずる苦しさをさめざめとしたおかしみに変えているからだろうか。『彼』は箴言集とも詩ともどれともちがう奇妙なフラグメントである。けれども、区切りのみえない無際限の中に途方にくれていることでカフカの居場所がほの見えるようでもある。
形式が詩に見えにくくとも、ふと書いてしまう言葉が詩的であるということもある。なので普通詩人と呼ばれないカフカの作品を引いてみた。カフカは詩や文学が20世紀以降生きうるその培地であるように思う。
長谷川四郎は自分のシベリア体験をもとに、小説を書きながら優れた翻訳を静かに出してきた。たしかブレヒトやボブロウスキの翻訳もあると聞く。シベリヤ体験のある石原吉郎や香月泰男らとの硬質であったりある地点にとどまるだけでない茫洋とした感覚を長谷川四郎は持っていたように思う。長谷川と詩の関係は考えてみるなら興味深いだろう。
今日ドイツ名詩選の中にボブロウスキの詩を見つけた。「カフカ傑作短編集」の解説の中にもあったので、できれば紹介したい。
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