Sep 23, 2008
いつもの道・ちがう道―スカイクロラを見たよ
久々に更新です。ご無沙汰しています。昨日スカイクロラを観る。梅田ブルク7にて。
(以下ネタバレ部分があるので注意)
自分にひきつけてしか感想がいえない性質なのだと断っておく。その上で言うと自分に引きつけると自分の弱点や至らないところをいろいろ感じずにはおれなかった。
劇中、こんなような台詞があった。
「ふだん見える道が今日は変わってみえる。それで、いけないのだろうか」
そういうふうに、函南くんは自問するのだった。
この映画に出てくるパイロットたちは、何か根本的に自分の人生というと臭いけど、そういうものを変えたいと願っている。けれど、どうしたら、どうなったら、自分が変われるのかわからなくて、息を詰まらせている。俺にはそういうふうに思えた。
たとえば函南くんの台詞は、それを象徴していると思う。少しずつ何かがちがってみえる、そういうふうに小さく毎日のちがいを感じるということが「生」であって何がいけないのか。
でも、函南くんは、子どものまま不死であるという設定がなくても、例えば俺のように有限で、どんどんおっさんになっていても、そう問うことはできる。
どうしてかって?俺がそうだから。毎日少しずつ違いを積み重ね、俺は例えば5年前とはかなり別人だ。しかし、なんだか奥底ではどうしようもなくずーっとアホみたいに変わらない同じ俺なのだ。(自己同一性?)
先日悪夢をみた。しかし、考えてみるとあれは悪夢ではない。実際ああやって自尊心をなぐさめる程度には自分を慰安する部分があるのだ。そうやって自意識を守っている。だから都合の悪いことはイヤなのだ。 不死(自殺・あるいは他殺でしか死ねない。自然死?はありえない)であり、子どもであることをかえられない彼らは、命がけで自分を問いながら、根底的には何となくそれに違和をもったまま、自爆的な戦闘で死んでいく。
見事に散ったら美しいということもない。それぐらいは醒めている。
俺は、そういう命がけもないから、なーんもえらそうにいえないし、命がけにやるってなんだよとも思っている。そういう半端なひとだ。だからうまくはいえんけど、函南くんが草薙さんにいったみたいに「生きろ。なにかが変わったとは思えるまで」というのはいい台詞だと思った。
けれど、草薙さんつまり愛する人に言うだけでなく、自分にもそういってあげられなかったかと思うのだ。
いや、そんな自分も他人も救うなんて虫のいい方法をいう俺が甘いのかもしれない。さらにいうと、俺は他人をいかしめる何かを与えたなんてこともないし。また、自分を甘えさせる知恵はちゃっかりもっている。
けれど、そういうことではあっても、俺は生き残る草薙さんも、そうではない函南くんも、なんか残念に思えてならない。
だけど、いい映画です。
きっとこれを作った人は、自分今のままでいいのか?なんも恐がったままで、人生楽しくないだろうっていいたいんだと思う。これだけなら、単なるおっさんの説教だけど、戦争での自爆的な戦いを思わせたり、戦争もまたある種の戯れだと提示する部分もあり、またどんどん寿命が伸びてきた私たちの鈍い慢性的な痛みを示唆したり。
しかし、俺がジジイになったら、日本も食うものがなくなっていて、すぐ死んでいたりするのかもしれないなと思う。身も蓋もなく。
だから、情けなくても、無常であっても、いつもの道がちがってみえるだけでなく、たまには違う道を歩ければ。
だって、どんだけいい加減でも、ひとには誰でも常道がある。ついつい同じように何かをなぞりそのことが義務となる。そらそうだ、けっこうひとは真面目に自分を維持しようとするのだ。しかし、それが楽しいのか、息苦しいだけなのか、最近よく考える。
他の道や道のないところを歩くと、楽しいかもしれない。けれど、ただだらしなく道を逸れていくのでは、今までの人生がバカみたいではないか。そういう意地も持っているから、自分が行っていない道のことを思うことが楽しいのだ。そして、ちがう道を行く時には、ずるずるいくのではなくきっぱり自分で決めたいのだ。
自己決定という言葉は苦手だが、それでもそれは、俺に与えられた贅沢であり、責任でもあるのかなあと。
受験勉強に身が入らず、他のことばかり考えているという現状をいっているだけのような気も…(御免)