Jul 18, 2008
33年後の岡真史、おれ34歳
さいきん岡真史の名をネット上で目にすることが何度かあった。彼は12歳で投身自殺したという少年で僕より一回りくらい上である。かれが亡くなったとき、僕は1歳であった。知り合い2人の日記で岡真史の名を見たのだ。それで妙に気になって、昨日本屋に岡真史「ぼくは12歳」を買いに行った。ところが、ブックファーストになく、ちかくのAという本屋へ。Aには検索機があるが、いくら書名や名前をいれても「該当するデータはありません」と出る。不可解である。
次にK書店へ。ここは蔵書数が多いからあるかなと思ったらない。店員に調べてもらっても在庫すらない。
けっこう今でも人気があるのか。時々こういうことがある。で、駅を越えて老舗の本屋に行く。さすがここはあった。すばらしい。
帰って「ぼくは12歳」を読み始める。彼の書いた詩と学校の作文、それから親御さんの手記。読者からの手紙までついている。誰かが上手だけどやはり子どもの詩だといったが、子どもだろうが年寄りだろうが、あるタイミングがくればとんでもない作品を書くのが人間だと思っている。ただ、そのタイミングというか自分の中の高まりとどう向き合うかがとんでもなく難しい。
夕方ただただ声に出して読む。黙読したりもする。ひとりでほうほういっている。
夜、家の者が帰ってきて、一緒に岡真史の略歴を見ていたら、岡真史の亡くなった日があった。それがなんと1975年7月17日。33年前の明日。つまりこれを書いている時点で今日である。ちょっとビビッた。時々必死で梯子して本を探すのだが、怪談にしてはいけないけれど、なんかに突き動かされていたのかな。霊とかいうと、いろんな意味で不謹慎だからいわないけれど。
時々見えてしまった人というのがいるけれど、岡真史の詩を読むと賢さよりも、その見えてしまった後の不思議な風が漂っているようにも感じる。如何に後世から未熟だとか言われても、その時その瞬間ある地点に立ち、そこを過ぎ去ってしまったこと自体は否定できない。
「道でバッタリ」という詩がある。バッタリ何かに出会ってしまったのである。そこで何かがはっきり「わかってしまった」のである。そのように感じる。いかにかわいかったり希望に満ちているような彼の文章を読んでも、見えてしまった後の妙な感じが感じられるのである。僕はアホだから岡真史に何が見えていたかわからないのだ。もしかしたらとてつもなく真っ暗だったのかもしれない。わかったようにいうのは止めたいけれど。
無題という詩がふたつある。
「無題」
にんげん
あらけずりのほうが
そんをする
すべすべしてた方がよい
でもそれじゃ
この世の中
ぜんぜん
よくならない
この世の中に
自由なんて
あるのだろうか
ひとつも
ありはしない
てめえだけで
かんがえろ
それが
じゆうなんだよ
かえしてよ
大人たち
なにをだって
きまってるだろ
自分を
かえして
おねがいだよ
きれいごとでは
すまされない
こともある
まるくおさまらない
ことがある
そういう時
もうだめだと思ったら
自分じしんに
まけることになる
心のしゅうぜんに
いちばんいいのは
自分じしんを
ちょうこくすることだ
あらけずりに
あらけずりに…
**********
さいきんモディリアーニをみたので あの描線の正確さは彼が彫刻家志望だったことから来ていると 先輩から聴いた。 その線の捉え方はまさに丁寧に削った感触である。 そこから僕はモディリアーニによくない印象を持ってしまった。 しかし僕の心が弱っていて そういうときにマッチしなかったので モディリアーニが悪い絵描きということにはならない。 問題は僕の心の疲れそのものなのである。 うまくいかないにも関わらず あらけずりにけずらないと 心の壊れは止まないのだ。 今の僕にとってすごく示唆的である。 でも彼亡くなっているよなあ…
「無題」
けりがついたら
どっかへ
さんぽしよう
またくずれるかも
しれないけど
**************
それにしても、けりとは何だろう?死とかそういうふうに解釈するのもなんとなくちがうし…
※7月17日岡真史の命日に書きました。
Jul 15, 2008
ウディ・ガスリー
昨日病院の診察で、先生が仕事のペースダウンをしたほうがいいという。社会復帰訓練なので、たくさん働いていないけど病人だから仕方ない。良くも悪くも疲れやすい心である。しばらく掃除の仕事は休養することに。今つぶれたら元の木阿弥だから。昨日病院の帰り梅田でナカイ楽器のCD,レコード市をやってた。ウディ・ガスリーのアルバムが安く手に入った。昔FMで聴いて覚えてて、売っていたので感激。ボブ・ディランのさらにその元祖のフォーク。戦前の人。おそらくプロテストソングやけどいかめしくなく、静かな祈り。ヘロヘロの朝に、この歌いい。弱ってても聴ける。
Woody Guthrie...Talking Those Dust Bowl Blues
Jul 14, 2008
本格的に
心身の調子が不調である。なにを書いても情けないことになるので
それはキリがないので日記を更新しなかった。
身体の方は鍼灸院に週一で通うことにしている。
それで溜まった疲労や何かをとるのと同時に
これから本格的に体が変にならないように
予防しています。
身体の方は、コリや冷えは一時よりマシになっているので
このまま鍼灸院に通って調整していこう。
問題なのは「気持ちやこころ」のほう。
実際心と体はつながっているから
こころがめげてくると当然体の力も落ちてくるのです。
それと心が弱くなってくると
元気なときにはなんでもなかったような様々な刺激が酷くこたえるようになる。
神経がむき出しになって、あれにもこれにもイライラしてくる。
へんなことを言うし、きれやすくなる。
結果何が大事で何がどうでもいいことか、整理できなくなる。
あれもこれも辛くなって泣けてくると
落ち着きも平安も少なくなり
大変なさけない気持ちがしのびよってくる。
そういうわけで
ああ、弱ってきているなあと思うのです。
そうすると、たいへんうっとうしい人間ができあがってくるので
それで、ごちゃごちゃしてこないか大変気がかりです。
久しぶりに、そうなっているので
ちょっと不安です。
本格的にぶち壊れる前になんとかしたいです。
ここまで、ちょっとこわいことを書いてきました。
実際、自分は小さい頃からダメな気分や
被害者意識に陥ってきましたから
やっぱり元気なときと参ってきた時に見える世界はちがうなあとつくづく
感じています。
ひとつよいニュースは無事すべてのレポートが返ってきて
あとは、8月の一週間のスクーリングを終えれば
基本的に通信教育の勉強はおしまい。
すべての課目合格であれば、10月末で通信教育修了です。
あとは来年の国家試験です。
だから、やっぱり今ちょっと変になってきているのは心配。
一緒にいる人や僕の回りにいる人も大変で迷惑かけっぱなしです。
こんな弱い人間が、どうやって働いて生きていけるのか
今は公的なお金で暮らしていますが
それも心配ではあります。
以上愚痴でした。