Apr 11, 2008
ゆずり葉
人間の三歳までの記憶は確かなものではないだろう。祖父母や父母が長い時間をかけて語り続けた物語のなかで、わたくしの三歳までの記憶は確かな形として支えられてきたのではないだろうか。それほどに大人たちが語り続けたことの意味が、今のわたくしにははっきりとわかる。三歳になってから、やっと歩き出したわたくしが一家にとっての戦後の復興の具体的な形であったということだ。歩きはじめた小さないのちは、きっと家族の希望の形をしていたはずだ。この思いに何度も帰りながら、わたくしはとにかくここまで生きてきたようだ。
三月十一日、息子のところに第一子が産まれた。男児である。十二日に娘と共に病院に会いに行く。初対面を果たして、娘と息子と三人でイタリア・レストランにて、早々の、即席のワイン付きの祝宴となった。このメンバーで話す機会もおそらく長い間なかったことだ。
息子は父に、娘は伯母になったわけだ。その娘の話を聞きながら胸があつくなった。娘曰く「大人になってから、双方のおじいちゃん、おばあちゃん、それからおばちゃん(わたくしの姉。五六歳で亡くなった。)と、わたしを可愛がってくれた人たちを失うばっかりだった。人間はみんなこうしていなくなってしまうのだと思っていたの。でも甥っ子と対面して、やっとその思いから開放された。このようにあたらしいいのちの誕生があるのね。」と。。。
ちちははを送りしのちの春の児よ 昭子
この「河井酔茗」の詩は、娘の小学校の国語の教科書に載っていたものです。覚えているだろうか?
ゆずり葉 河井酔茗
子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わって古い葉が落ちてしまうのです。
こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずってー
子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。
かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれどー。
世のお父さん,お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの,よいもの,美しいものを,
一生懸命に造っています。
今,お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい,花のように笑っている間に
気が付いてきます。
そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。
子供たちにゆずられるもののなかに、武器や爆弾がないことを祈ります。
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