オペラ『同級生夫婦』第二回
有働薫
第1幕第2場
(夜中。アントワネットのベッド。ナイトキャップのマリーが半身を起こしている。真っ青な顔、皮膚は削げ骸骨じみて闇に向かって)
アントワネット さあ、はやく、はやく。はやくおいで!さあ、はやく、はやく!
モーツアルト (やや太り気味。左のドアから、燭台を持って入ってくる)どうしたの、またうなされているんだね、かわいそうに……
アントワネット (見間違えて) はやく、はやく……ここへおいで、わたしのひざに…… (何かを掻き抱く仕草)返して、返して…
モーツアルト (アントワネットの脇に腰かけ、肩に手をやる)さあ、おやすみ、何も心配しないで、何も考えてはだめ、おやすみ、おやすみ、またきっと会えるよ、きっと、きっと…
(つぶやく)昼間はあんなに元気が良かったのに、かわいそうに…
きみのほうがずっとずっと過酷な目にあった、ぼくもひどい扱いを受けたが、死のぎりぎりまで音楽があった…ぼくはぎりぎりまで音楽だけをみていた。音楽がぼくの意識をその手のひらにのせて揺すってくれた。きみだって、きみひとりのことであれば…
きみがシエーンブルンの広間のゆかで滑ったぼくに駆け寄って助け起こしてくれたとき、歴史家はそんなきみを、王家の人格としては失格だと決め付けたが、それは間違いだ。
「大きくなったらお嫁さんにしてあげる」と幼いぼくの唇がおもわず叫んだのは、6歳の人間同士の存在の画期的な認め合いだった。作り話だろうとかまわないさ、ロミオとジュリエットのように内部に火を持っている人間同士にとつぜんアークが走ることが起こることがあるのさ(この台詞のあいだにアントワネットは眠りにつく。モーツアルトは上掛けを掛け、枕を直して、灯をもって退場、やがて
隣室でピアノの音……ロンドイ短調K511
(左手上に10歳の少年の姿、やせ衰えた真白な…)
(暗転 暗闇の中で、歌)
《♪今日はモーツアルトブルー
の空
〈あの子は名前負けしよらすもんな〉
母はときに残酷なコトバを口にする
母上さま六歳の夏のとある真昼からあなたにこころをひらくことはなかった
わたしだって名前負けです
でも棺の中の兄は
美しい顔をしていた
紫や白やピンクのカーネーションやバラがよく似合った
火があなたを無に運んでいく寸前
三五歳の音楽家の網膜に最後に映った
秋の空の色がやはりあなたにいちばん似合った
棺にもはいらず
穴の中で腐って行く
多くの同胞と腐乱して混じり合った
しかしそんなことは瞬時のこと
あなたたちの生はその何万倍も永い♪》
モーツアルト: (居間の暗闇の中でスポットを浴びて)
美しい名前をもらって 美しい音楽をつくった
きみのルダンゴトドレスの肖像画とどっちが残酷か
うつくしいとかうつくしくないとか
象徴とされることの無残があるだけだ
アントワネツト:(ベッドの中で、うわごと) ぼうや――ぼうや
(暗転)
第1幕 第3場
(モーツアルトが昼間書いた2通の手紙の名宛人①)
北のとある街のテークラの家。質素な居間、職工風の青年と初老の母が朝の食卓についている。冬の明るい晴れた朝。町並みが窓から見える。教会の尖塔も。スープを飲み終わり、エプロンを取り、上着を着る青年。母のひたいにキスして、戸口に向かう。
青年: 行ってきます……今日は帰りが遅くなる、たぶん。母さん先に休んでいて。組合の飲み会があるんだ、夏に催されるお祭りの相談と、教会の裏庭の墓地を拡げる計画のことで牧師さんから説明がある……母と子は肩を並べて戸口を出、母は子を見送る。
居間に戻り、食卓を片付ける。食器洗い、台所の水汲み、洗濯、床の掃除…などの家事。開け放された窓、小鳥の声。(歌曲「すみれ」が小さく聞こえる)
(エプロンと頭巾を脱ぎ、窓のそばの椅子に坐る)
テークラ: (ブラウスの胸ポケットから折りたたんだ紙を取り出して、少し開く、それから呟くように)お手紙ありがとう、懐かしいちゃん……あの頃、まるで大勝利の将軍を迎えるように、夢中だった、こんな夢の王子のようなイトコがわたしにあるなんて! ああ、なんて夢のような時間だったことだろう、あの若い日々が今のわたしの生きる糧、誰がなんと言おうが、あんな素晴しい日々をわたしは臆せずに突き進んだ、まるで始めて従軍する初年兵のように! 誰がなんと言おうが、あの日々はわたしの宝物、わたしのダイヤモンド、たとえ王妃の位だって敵いやしない。教会にオルガンを弾きに行った日、今まで眠りこけていたあの機械が、とつぜん目を覚まして、まるで洪水でもとつぜん襲って来たかのような……あれは奇蹟の日だった!あの最高に輝かしい日々の記憶のために、わたしはいま長い老いの日々を送っている、幸せに、今でも心ときめいて! 生れてきたことの最高の喜びを私たちはいっしょに掴んだ! わたしたちには勇気があった、私たちは晴れた空の中の鳥たちのように素直だった! 生れてきた幸せを、それは永く続くことはなかったけれど、それでいいんだ、あれで充分なのだ。こんな恵まれた生きる喜びを持ったのだもの。お手紙ありがとう、ウオルフ兄さん!(テークラおばあさんは窓の外を眺め続ける)
(暗転)
第1幕第4場
(モーツアルトが昼間書いた手紙の名宛人②)
(舞台は暗闇。モーツアルトの声で)ストックホルムの野獣性が爆発する――貴族対民衆の根源的本質的憎悪が年老いたフェルセン元帥の上に。18年後、6月20日。時代は本質的に長い支配階級を転換させる。信義の時代から経済の時代へ。1810年、フェルセン惨殺。
(暗転)
第1幕 第5場
(ドレスデン、1789年4月 ケルナー・ハウス
モーツアルトがピアノを弾いている。この家の令嬢ドリス・ストックが入ってくる。
近づき、しかし弾くのをやめさせない。軽く目礼して、離れたソファで静かに聴いている。ややあってモーツアルトがピアノを離れ、ドリスに話しかける)
モーツァルト: 美しいお嬢さん、ぼくのピアノお気に召しましたか?
ドリス: まあ、モーツァルトさんですね、あの有名な。…『フィガロの結婚』、不思議なオペラですわね、少し心が痛みますけど……
モーツアルト ありがとう、おかげさまでウイーンでも評判でした…とりわけ皇女さま、ご令嬢がたが拍手してくださいましたよ。
(ドリスの回想、70歳、モーツアルト没後40年、白髪のドリス、バックに映画「ロミオとジュリエットのテーマ“A time for us”)
ドリス: おぼえています……
(A time for us が鳴り続ける)
第1幕終り