連詩・ヤコブの梯子
水島英己 岩田英哉 高田昭子
1
エルンストの「夏の名残の薔薇」をMidoriが弾いている、
難しさがなつかしさに一瞬にして変わる。薔薇はバラの匂いに
開いて、漂って、夏の名残を冬が思い出している。
想っているだけでは匂わない、そうだよ、
弾かなければ、歩かなければ、あの夏の岬を、
その先の海の匂いまで、すべての思い出が消え去る沖の波まで。
2
薔薇の香りが潮の香りに変わる
その時間の境目はみえないが
そこからはじまるものが聴こえる
波の音楽 船底で櫓を漕ぎ続ける幻の奴隷たち
空の音楽 ヤコブの梯子を降りる光の子供たちの歌声
わずかに湾曲する水平線を越えても越えても音の記憶はついてくる
3
時間の潮目、空間の肌理を読みながら、
世界を変奏する誰かの歌声を
ガレー船の舳先で聞く。市場で売られる黒、
罪深い白。権力への夢は見果てぬ夢だよ、ヤコブ。
小さいものになって、どこか遠いところへ、行きたいよ、
思い出が生まれるよりも速く、記憶の波濤を越えて、
4
小さいもの、両脚をかかえて泣いていたね、銀杏ふる初冬に
私たちの別れは、私が操作したのか、(小さいもの、ごめんね)
朝の川はたおやかにうち煙り、
小夜ふけて鴉は鳴き、
むかしむかし、しづかなおほをとこがゐました、
静かに言いました、「さあ、さあ、恐れないで、……」
5
おほをとこのながいながい旅
ちいさいもののちいさなちいさな旅
ながい旅のエピローグは
ちいさな旅のプロローグに重なりあって
物語は続いてゆくのだろうか
「さあ、扉を開けよう。」
6
という、不思議な声に促されて
わたしは、思い切って扉を開けて外に出る。
なんという世界だ、ここは。死者たちが
泣いている。サンティアゴ・デ・コンポステラ。
ぼくは巡礼者となって、この木に刻まれた
ヤコブの十字架を信ずる。ドイツの青い森から。
7
コルマールに詣でて、グリューネヴァルトの祭壇画、
苦悶に満ちた磔刑のキリスト像の前に、
これ以上一体誰が、これ以上の惨苦にさらされ得るだろうか?
巡礼者たち、麦角に侵された壊疽の巡礼者たちは、
額づき、深くキリストの痛みに癒される、これは
痛みの転移ではない、注視することは薬以外のものではなかった。
8
処女受胎告知 深い戸惑いのなかで
朝ごとに母は祈ります
歓び多き日々を子と皆に、痛みは母に与えよと。
国境線を幾度も描き変えたのは誰?
永い旅は終わることはない
だから道を閉ざさないで。
9
銀杏並木は、金色の外洋船、を見るわたしは、
いつもそこにはいない。
だれかが歌う、Your absence has gone through meという
気だるいジャズ・ピアノを聴きながら、
このまま溶けてしまいたい。なにもかも、
全部、放り投げて。
10
もの言わぬ、もの言えぬだれかが
金色の葉たちの風の旅を見ている。
さざめく舗道の隅で泣いている小さな子の上に
一枚のきみが落ちる。
冬の静かな挨拶、
その気配が私の体のなかを通り過ぎて行った。
11
月から落ちたうさぎのかすかな悲鳴を聴いた
ニンゲン語を話したいうさぎ
寒夜の書斎のキーボードを飛んで跳ねて
言葉の迷路 愛の胸突き坂 涙の水たまりに落ちて
泣きはらした赤い目
長い耳は木枯らしの音に震えて
12
浮く日、沈む日、照る日、曇る日、
泣いても、だれも、助けてはくれないよ、
うさぎよ、うさぎ、うさぎさん、ことばは、
魂のようだね。お前も必要としているのだね。
姿を隠して、宙に浮く、ぼくは今日も、
ふわふわだ。もっと、ふわふわしてごらん。