母の肖像

母の肖像

有働薫

ジャンヌ・ダルクの裁判記録日本語訳を詳しく読んでいくと、興味深い記述に出会う。
ジャンヌが十七歳で王太子に面会するためこれを限りと家を出たとき、母親のイザベルは仲間の巡礼者たちと巡礼に出ていたという。これは妙な話しだ。父親のほうはジャンヌを戦場に行かせるぐらいなら家の前を流れるムーズ川に投げ込んで溺死させてしまうよう兄たちに命じていたという。兄たちは父親の言いつけを守らず、やがて妹を追って王太子軍に加わりに故郷を出てくるのだ。ジャンヌの戦績により一家は伯爵号を授けられ、妹が刑死した後も、生き残ったほうの兄ピエールは、オルレアンに領地をもらって住み着いているのだから、一家の出世物語と言えなくもない。これらの資料から推定されるのは、ジャンヌが強く、母親の精神的影響下にあった、ということだ。一四三一年二月二十一日の最初の審問記録にも、「姓については全く知っていないと述べた。」と記されている。この答え方の不備については、後の三月二十四日の記録には、「自分の姓はダルクもしくはロメであり、自分の故郷では娘達は母方の姓を用いていた、と述べた。」との記述で補われている。ダルクと、父の姓でジャンヌが呼ばれるようになったのは、後のことだという。それにしても巡礼旅行中とは。母のロメという姓も、ローマに巡礼した者、という意味で、母自身が娘時代にローマ巡礼を果たしたのか、そういう家族がいる家の者という意味か、ともかくローマ巡礼という大事業に関連してある種の尊敬をうけていたらしく、ただのありきたりの農婦ではない。信念のおそろしく堅固なそんな母親の許で育てば、当然信仰心の固い、思い込みの激しい娘に染まることに間違いない。同じ二月二十一日の記録には「自分の信仰を授けてくれたものは母以外誰もいなかった、と述べた。」とある。この母にして、この娘。幼い娘が驚異的行動力で、母の想いを実行に移した。ジャンヌの精神には何の疑いもない、真直ぐな燃え立つ信仰心のみがあったのだろう。母がそれを保証するのだから。一心同体の母娘。もちろん時代がまるで違うが、わたしにはこの母こそ少々くせものに思える。