木嶋孝法『宮沢賢治論』
 出版に関して



 この度、木嶋孝法『宮沢賢治論』を思潮社より出版致しました。
 吉本隆明氏主宰の「試行」に掲載された「銀河鉄道の夜論」他の賢治論、そして「春秋」「booby trap」(清水鱗造氏主宰)に掲載された作品等を一冊にまとめました。
 木嶋孝法は平成14年4月17日に51歳で短い生涯を閉じました。その後、私、木嶋容子は平成15年4月1日に、吉本隆明氏宅を訪れました。出版に関してご相談したところ、思いもかけず、出版社を紹介して下さるとの事、大変感激し、感謝しました。その後、思潮社の会長小田久郎氏をご紹介して頂きました。小田氏、快く受けて下さり、出版の運びとなりました。そして司修氏が装幀を引き受けて下さいました。後日、吉本氏に何か一文をと申し出致しました。吉本氏曰く、個々人の作品はひとつの作品として自立しなければならない。一文を寄せるという事は吉本の色がつく。「試行」出身だからこそ、そうしてはいけない。木嶋さんの作品の「自立」を望み出発させたい。吉本さんのこの言葉に私は父性を感じ、大変感服致しました。吉本氏、小田氏、司氏のご尽力に深く感謝致します。


木嶋孝法 プロフィール

 昭和25年12月8日、北海道根室に漁師の長男として誕生。
 父勝男、母、まつえ。20歳の時、父は母に包丁を突きつけて「お前と一緒にならなきゃ、お前を殺しておれも死ぬ」とせまった、一途で純粋な男であった。
 長女久美子誕生。長男孝法出産の時、母は生来心臓が弱く、母か子かどちらか助からないと言われた程の難産だった。4キロだった。座布団4枚しかない馬小屋で生まれた。父も母も小学校しか出ていない。父は船頭になった。冗談ばかり言って皆を笑わせる明るい父であった。だが、海に出ると厳しかった。
 初めて船に乗せてもらった時は、船のマストにくくりつけられた。父の背中から人生を学んだ。父を尊敬していた。冬の間は漁がないので、父は「氷担ぎ」という仕事をした。湖や川に張った氷をノコギリで切り出し、これを担ぎ、リヤカーに載せて工場まで運ぶという仕事だ。冷却装置がない時代だから、この氷を魚の冷却に使っていた。小学校に入った時から、「氷担ぎ」の仕事の手伝いをした。そして後年「氷担ぎ」という詩を書いた。
 牛乳配達、新聞配達をしてから学校へ行った。厳しく労働するという事。これは、後年、詩を書き、思索をする様になってからも変わらない。小学5年の時、ある家からピアノの音が聞こえてきた。自分も弾きたいと父にせがんだ。父からは「何言ってるんだ。ピアノなんか弾かずに俺のケツでも弾いてろ!」と言われた。代わりにギターを買ってくれた。独学でギターを弾き、得意の歌を皆に聞かせた(演歌のみ)。この頃大きな出来事があった。
 入院していた母と最後の別れをする為札幌に行った。その間「母の死」にどう対処するか思い悩んだあげく、ある心構えを整えた。「死ぬなら、死ね!」と現実に母の死に遭遇する前に、自分の中にある母を殺した。母が生きているという現実を観念で操作して殺してしまった。現実には母は一命を取り止めた。だが、それ以来、母に異和感を感じるようになった。自分の中で観念的に殺してしまった母を生き返らせることができなかった。それゆえ生きている母に対して亡霊に接するようにしか、相対することができなかった。この事がきっかけで故郷を去ることになった。そして体の弱い母は救いを求めて仏教系(日蓮宗)新興宗教立正佼成会に入信した。母は子供達にも入信を強要した。字の読めない母の為に、経典を読み説いているうちに、独学で原始仏教を学ぶようになった。根室にいた頃はよく喧嘩をした。カッとなる気質があって、ちょっかいをかけられたらすぐ喧嘩になった。強かった。皆から野蛮人と言われた。こんな性格が嫌いだった。
 15歳で単身上京。佼成学園高校に入学。四畳半一間のアパート生活が始まった。ある友人に、木嶋は小説を何にも読んでいないと馬鹿にされた。実際そうだった。家には一冊も本がなく、中学までに読んだのは仏教本と伝記だけだった。図書館で小説全集を片端から読んだ。読んだ結果、「何だ、自分の生まれ育った事や親爺の事やその周りにいる人を書いた方が面白いや」と思った。が、小説を書く気はなかった。この頃から「自分とは何か」「人間とは何か」を哲学するようになった。そして、18才のある日「あるでない、ないでない」と思索する中である「境地」に至った。「境地」とは一への抽象。


ヘソの裏にも存在せず
また太陽でもないとすれば
それは何なのか
危険な姿勢である
すべてを同一視する認識であり
すべてが同一であることへの感動 エクスタシーである
それは志向性を持った感動である
すなわちすべてが一に帰すことを志向する
意志である
すべてが一である
ということと
すべてを一とみることとは違う
すべてを一なるものとみる
という
この〈みる〉
というニュアンスの中に、実際にはそうでないものを
そうみる、という意味合いもがまぎれ込んでいる
すべてを一とみる
という表現には苦い反省がある
すべては一でしかない
という裏腹の認識が秘んでいるからである。
多種多様を見ようとして
一に絶望するもの ニヒリズム
一を見ようとして
多種多様に絶望するもの 懐疑主義者
一を見ようとして一を見
多を見ようとして多を見る
のでなければならない
すべてを関係としてみれば一である
関係項をみれば多であるより他にない
関係のあり方に多もあるのである
すなわち論は関係論である
自己もまた関数であるより他ない
ということから言えば
何ら自己ではない
しかし関係の濃密な部分と考えれば
これもまた自己である 中枢 核
などという語でとらえることができよう
この中枢 内部と外部という区分は役に立つ
思考の便宜でしかない
思考の便宜でない認識などない
綱目と綱目の関係を考えることができる
関係中枢と関係中枢との関係を考えることができる


 高1の時、「倫理・社会」の時間に、教師の代わりにキルケゴールについて授業をした。皆に哲学を教えた。キチガイとも言われた。武蔵大学、人文学部、ドイツ哲学を専攻した。ここでも教授、友人誰一人哲学の話をする相手がいなかった。2年で中退。自分のような人間が大学に何かを求めるというのが、そもそも間違っていた。
 18才で「銀河鉄道の夜」に出会った。自分の心に引っかかって他に何も書けなかった。書かなかった。自分の思想や心象を追うよりも、この作品を理解し解明する方が重要であると思われたからだ。
 以後8年かけて「銀河鉄道の夜論」を完成させた。そして、この私的生産物をどうしようかと悩んだ。文壇に出ようという野心は全くなかった。吉本隆明氏の「試行」に寄稿するという結論に達っした。そして「試行」51号に掲載された(1979年1月発行)。感激した。田舎から送ってきた鮭を持って吉本氏宅を訪問した。友人の加々美豊幸さんに付き合ってもらった。突然の訪問にもかかわらず、吉本さんは快く応対して下さった。作品を高く評価して頂いた事が何よりも嬉しく、励みになった。話の途中電話がかかってきた。吉本さんはどんな人にも、丁寧に応対される方だ。重要な仕事をなさっている方だから、これからは一切邪魔をしてはいけないと心に誓った。
 「試行」連載の「銀河鉄道の夜論」をご覧になった春秋社の方から「春秋」への原稿依頼があった。「春と修羅」他計5回掲載された。そして同じく「銀河鉄道の夜論」を読んで、まっ先に会いに来て下さった方が清水鱗造さんであった。賢治論を一冊にまとめてはいかがですかと、ずっと言い続けて下さった。又、主宰の「booby trap」に発表の場を提供して下さった。加々美豊幸さんと清水鱗造さんは木嶋孝法にとって生涯の友であった。



木嶋容子 プロフィール

 木嶋孝法同様北海道出身。2年年嵩である。仁木町で生まれ、森町で育つ。ここで両親は、映画と興行(旅芝居、サーカス、歌謡ショー等)を兼ねた劇場を経営。この劇場はある男によって乗っ取られる事になった。10才の時だった。そしてこの頃、私はある現象を体験した。
 森の中で迷子になった。その時あるエネルギーを感受した。そのエネルギーに導かれるままに歩いていくと道が開けた。その後、不可視なるものへと導かれるようになった。
 劇場が乗っ取られたので北海道を去ることになった。昭和33年、小学5年の時だった。何とか父は元の職業、外国航路の一等機関士の職にありついた。大阪の柏原市に住むことになった。北海道からの転校生の私は、アイヌとか間の子とか言われ、苛めの対象であった。同じ苛められっ子の在日朝鮮二世のりーちゃんと仲良くなった。この時、ある事件がおきた。
 線路に、電車に轢かれた犬のバラバラ死体があった。犬がかわいそうなので、二人で土に埋めてあげた。これを見ていた友人が、学校で騒ぎをおこした。りーちゃんに対して、朝鮮人だから、家業が動物の解体屋だからあんな気味の悪い事平気でやるのだと、面白がってやっているのだと、苛めにかかった。カッとなった私は、その生徒を突き飛ばした。もしそばにカッターナイフがあったら突き刺していたかもしれない。教師まで、そんな事は保健所がやる仕事で、子供が勝手にしてはいけないとおこられた。二人の行為は、善行である。それを悪意にとられて悲しかった。その後二人共登校拒否児になった。この現実を容認できず、関係性を拒絶することで何とか自分を持ちこたえようとした。失語症になった。
 中学の時、実家が、新興宗教、世界救世教(神道系)に入信。私は10才の時に感受したエネルギーが何であるか、わかるかもしれないと思い入信した。しかし、私の求めていたものと違った。精霊は樹木に宿るといわれる。事物には精霊など霊的なものが遍在し、諸現象はその働きによる、といわれるアミニズム。私が感受したのはアニマであろう。新興宗教に求めるものは何もなかった。
 高校は東京世田谷にあった青葉学園(仏教系)に入学(現在廃校)。3年になって受験で大切な時期に7人の教師が解雇された。私たちは授業ボイコットをし、学園紛争になった。裁判ざた、新聞ネタにもなり、その後廃校になった。この学校で座禅を体験。仏教世界に憑かれるようになり、原始仏教を独学する。
 私の叔父は戦前中国にいた。北京で貧しい女学生の為に女学校を設立した清水安三先生の話をよく聞いていた。戦後は町田に桜美林学園を設立。山崎朋子氏が清水安三先生の一生を綴った『朝陽門外の虹----崇貞女学校の人々』(岩波書店)という著書がある。桜美林はプロテスタント系大学である。推薦で英米文学部に入学。宣教師として来日した、ハーバード大学を卒業したばかりの新任の講師、ブライアン・ジェームズ・コンレイ先生に、英語、ラテン語、キリスト教を学ぶ。
 ある日先生に徴兵カードが来た(ベトナム戦争)。大学との契約は二年。せめて後一年先生に教授してもらいたかった。そこで徴兵延期嘆願署名運動を行う。生徒達に絶大な支持があったので90%近い署名を集めた。これを米国徴兵局に送った。残念ながら願い叶わず、先生は徴兵された。この署名運動が朝日新聞に掲載、これを読まれた講談社「若い女性」の大村数一氏から取材を受けた。「さようならコンレイ先生」の手記が掲載された。中島和子教授ゼミ「非暴力研究」に参加、学ぶ。
 卒業後、(株)毎日サービスに入社。毎日新聞社の出版物の販売業務をする。同僚から木嶋孝法主宰「ユニテ」を見せてもらう。この雑誌では、小栗羚というペンネームで執筆。詩「天球独楽」が心に引っかかった。月例会に誘われたので参加した。ここで木嶋孝法に出会う。
 木嶋はまだ21才だった。大学を中退し、肉体労働をしながら、「銀河鉄道の夜論」に取りくんでいた。曾祖父が四国で寺子屋をしていた。武家の子供だけではなく、農民の子供も教えていた。貧しい家は、米、大根等を持ってきたそうだ。こういった私塾をしようと思った。木嶋も同時期、同じ事を考えていた。木嶋は一年間(株)大平ビルサービスでサラリーマンをしていた。ここで貯めた貯金と私の貯金を元手に「ユニテ学習塾」を昭和50年3月に開塾。学校の授業についていけないような落ちこぼれ(という言葉は好きではないが)の為の補習の塾にした。私が小学5年の時に登校拒否児になった、そういった子供達が来てほしかった。
 私は英語、木嶋は全ての教科を教えた。そして、父親ゆずりのユーモアで、楽しく、教え方が上手かった。「永訣の朝」に曲をつけてよく歌っていた。 ♪あーめ ゆーじゅ とーてちてけんじゃー♪ ギターを弾きながら生徒達に聴かせていた。
 私が一番印象に残っている生徒は、いつも首にスカーフを巻いている13才の少女であった。暗い目をしていた。やっと心を開いて話をしてくれた。スカーフを取ると首には黒ずんだ跡が残っていた。無理心中だった。山の中で少女が息を吹き返した時、母は樹木にぶらさがっていた。少女の生への復活は「絶望」から始まった。私はこの時から「絶望」という言葉を使わなくなった。
 長男海人、長女ゆりか、二人の子供に恵まれた。ある意味、特殊で無骨な生き方しか見せなかったこの親にしては、良く育ち自立してくれた。感謝している。二人が成長し、教育費もそれぞれ必要になった頃、木嶋は塾を終えてから深夜のアルバイトを始めた。大日本印刷の荷造りの労働である。これは病気になるまで続けた。
 こういった生活の中で、賢治論を書きながらも「ユニテ通信」という私誌を出した。1号から7号(76年〜77年)までガリ版刷り、8号から10号(78年〜79年)までは、私が和文タイプを打って発行した。この頃、加々美豊幸さんに出会い、寄稿して頂いた。
 木嶋はある時期、何も書かない時があった。いや、書いてはいたが、書いては破り、又、書いては破りということを繰り返していた。その時のことを晩年「賢治論を書いている時は、理解不能な文章があっても、思索の果てにある直観があって解明する、という事が多かった。これは無意識の世界だ。無意識をとおして、人間の心は自然に繋がっている。ここから直観がある。意識的に書かれたものは駄目だ。だから破り捨てた。父さんが海で、漁場をさがしあてる時と同じだ。父さんは海の色、波、風が自然に教えてくれるんだと言っていた。これも無意識の世界だ。父さんの漁場をあてる直観と、自分の思索の果ての直観は同じだ。」と言った。
 ある時、物を食べた時つっかえる、痛いと言った。食道ガンだった。手術、入退院を繰り返した。約2年の闘病生活だった。51才4ヶ月の短い生涯であった。純粋に生きた生涯だった。
 四十九日が終わって、私は久しぶりに「火の子」に遊びに行った。経営者内城育子さんが「火の子」は閉めるので木嶋さんが店をやってくれないかと言われた。育さんは「風紋」出身で私はこの時から顔なじみであった。「火の子」は文壇バーとして30年の歴史があった。私は常連ではなかったが、最後に私に申し出があった。これもご縁だと思った。木嶋が背中を押したような気がした。平成14年9月「ユニテ」としてオープン。以来今年で三年目。やっと、この場で木嶋孝法『宮沢賢治論』を出発させることができた。

 ユニテとはフランス語の unite の音写である。唯一者という訳が当てられたりするが、私が看取するニュアンスは少し違う。ドイツ語に allein という語がある。英語に直せば one of all とでもなるのだろうか。全ての内の一つ、という意味で唯一という意味なのであろう。それで私はあえて one and all という意味に取りたい。全一者。全てであり、一人である者という意味である。




2005年12月30日掲載。