第六十二回目 岡田隆彦の「泡だつもの 1」
○岡田隆彦の詩集『時に岸なし』の「あとがき」には、収録されている50編近い作品の全体が、「一つの変則的な長編詩」としての脈絡をもって書かれたとのことわりがあり、続けて「かってアルコール依存症におちいった現実のわたしの、みずから回復しようと努めた過程を軸に、折々の心持ちと想像とを言葉にして織り上げたような案配である。」との記載がある。そういう意味では、『時に岸なし』という詩集の全体が、一編の長大な「お酒の詩」をなしていると言えるかもしれない。
泡だつもの 1
岡田隆彦
うまく水路がみつからないときは、
いつも揺れる界隈に溺れてしまって
突堤のような店さきで
押しよせる雑踏にしばらく身をまかす。
烈しい陽に焼かれた街の顔面から
潮のにおいがただよってくる。
どうして昼下がりの都会では
惨事のあとの気配に
静かな時のうつろいがまじりあうのか。
掌にする酒杯のなかの海原で
いま、泡だつものがある。
(しゃふしょふ)
無数の異なった光の屈折
微細な球体が限りなく集まって息づく。
泡の発生と消滅から
輝く裸体がたちのぼる。
漣といっしょに柔かい髪が拡大するのは
青そらがなまぬるい西風とは逆に
どんどん遠くへ退いてゆくからだ。
視界にたちはだかる彼女の肉体の、
少し濡れている丘のふくらみや
彎曲する河口を光がなめらかにすべる。
見ている者の肌は粟だち
体は閃光に刺しつらぬかれる。
声をあげるかたちをしたままで
わたしの口は、
泡だちに封じられてしまう。
季節の薄衣がなびいて顔をなぞった。
これは永遠の誘惑、それとも
くりかえす仮死の擬態か。
連作「泡だつもの」より
『時に岸なし』〔思潮社)所収
○昼下がりに「わたし」は「突堤のような店さきで」ビールを飲んでいる。「わたし」はそのジョッキのなかの泡立ちをみているうちに(海から生まれたという女神の)「輝く裸体」を連想し、その連想からリアルに立ち上がってきた空想のなかの彼女の姿に魅了されてしまう。1から5まである連作詩「泡だつもの」には、他にも春の女神フローラや、オーロラやイルカにのる少年、薄い衣をまとった裸婦や女神たち、といった様々な幻想的なイメージが登場するが、それらが、みな酒を飲みつつ想い描かれる空想の産物なのだ。この詩の「輝く裸体」は、女神が海から生まれたというギリシャ神話、直接にはその裸体を端麗に描いたボッティチェリの「ヴィナスの誕生」をふまえているようだが、他の幻想も同じ画家の「春」やその他出典があるかもしれない西欧絵画の記憶と重なっているように思えるところがある。「わたし」はひとり酒杯をかたむけながら、エロティックで甘美な神話世界めぐりの夢想にうつつをぬかしているというべきだろうか。それにしてもその刹那の至福という感じがよくでていて、こういう酒の飲み方をしていたら深みにはまりそう、というのがわかる気がする。
ところでこの詩の舞台は、たぶん旅先のヴェネチアではないか、ということが「水路」とか「潮のにおい」という言葉から想像できるのだが、そういう想像を補強するように、この詩集にはヴェネチアの登場する詩が何編もある。作者が、そこで随分飲んだ酒がたたって入院という運びになったことがうかがえる「かってはさまざまの酔楽園が」という詩の前半を引用しておこう。
なぜか黒い「フェルネット・ブランカ」(白いフェルネット)とい
う名の
リキュールをいたく好んで、
水のチャプタプするのを聴きながら
スパゲッティ・ポモドーロの出るまえに
何杯も飲んだ。
余計なことをいわぬエノクーラでさえ
”ディジェスティーヴォを
アペリティーヴォみたいに飲むんだから
それがほんとの時差ですよ”といった。
(ハリース・バーで
イカの墨づくりをおごらせようと
黒い酒の息はいて網を張っていたが
ついにヨネクーラは到着せず。)
ああ、水の都で溺れかかった青い猫は
梶ケ谷の病院にぶちこまれたのだった。
けいれんしました、汗かきながら、ハイ、
虫酸が走るほど、例の
幻覚におびやかされました、ハイ。
生理は順調です、
かくし酒? そんな、めっそうもない、
吐きます、もどします、ハイ
社会に復帰したいのです。
ああやっぱり泥酔したい、
時間が気になる。
しみじみ飲りたい。
「かってはさまざまの酔楽園が」より
『時に岸なし』〔思潮社)所収
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